戦国武将が使っていた四字熟語や漢字文字と印について【武将と印鑑シリーズ】

風林火山、天下布武、厭離穢土欣求浄土。

戦国武将の残した言葉には、四字で語られるものが多く残っています。

ただし、その多くは「座右の銘として好んだ四字熟語」ではありません。
旗に書かせた文字であったり、印章に彫らせた文字であったり、あるいは僧から授かった教えであったりと、それぞれ用途がまるで違います。

そして意外なことに、既にある四字熟語から選んだのではなく、自分で四字の言葉を作ってしまった武将もいます。

この記事では、戦国武将が実際に使った四字を、それが何に書かれ、何に彫られたのかという観点から見ていきます。

※本記事で解説している旗印や印章の由来については諸説があり、本文の記述が唯一の定説であるとは限りません。本記事の情報を用いて行われた判断・行為により生じた損害について、当サイトは責任を負いかねます。

風林火山(武田信玄)

風林火山はもっとも有名な四文字の1つでしょう。

ただし、武田信玄の旗に「風林火山」と書かれていたわけではありません。

実際に旗に大書されていたのは「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」の十四文字です。
中国の兵法書『孫子』軍争篇からの引用で、疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し、と読み下します。
軍の進退のあり方を説いた一節です。

この旗は「孫子の旗」あるいは「孫子四如の旗」と呼ばれました。
山梨市が文化財として伝えるものは、平織りの絹地を紺に染め、両面二枚はぎに仕立てて、文字を金泥で大書したもので、恵林寺の住職であった快川紹喜に書かせたと伝えられています。
紺地に金という配色は、掲げたときに遠くからよく見えるためのものでしょう。

つまり「風林火山」という四文字は、十四文字から一字ずつ抜き出した略称です。
この呼び方が定着したのは後世のことのようで、古い記録には孫子の旗としか書かれていません。

なお『孫子』の原文には続きがあります。
知りがたきこと陰の如く、動くこと雷霆の如し。
四字にまとめられる過程で後半が落ちてしまったわけです。

厭離穢土欣求浄土(徳川家康)

厭離穢土欣求浄土は徳川家康が旗印に用いた八文字です。

「おんりえどごんぐじょうど」と読みます(※えんりえど、と読まれることもあります)

厭離穢土(おんりえど)と欣求浄土(ごんぐじょうど)という、四字熟語二つの組み合わせになっています。

穢れたこの世を厭い離れ、清らかな浄土に生まれることを願い求める、浄土教で用いられてきた語で、平安時代の僧・源信が著した『往生要集』にも見えます。

家康がこの言葉と出会ったのは、家督を継いで間もない若いころと伝えられます。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、岡崎へ逃げ帰った家康は、先祖の菩提寺である大樹寺に入りますが、そこを敵に囲まれます。
先祖の墓前で自害しようとした家康に、住職の登誉上人がこの言葉を説き、汚れた世を正し、太平の世を目指せという教えとして受け取った家康は思いとどまり、やがてこの八文字を自らの旗印にしたと岡崎市観光協会は紹介しています。

信玄の四字が兵法書からの引用であったのに対し、家康の八文字は仏典に由来します。
どちらも既にある言葉を借りている点では共通しています。

天下布武(織田信長)

織田信長の天下布武は、旗ではなく印章に彫られた文字です。
印章に刻む文字を印文といいます。

信長がこの印を使い始めたのは永禄10年(1567年)。美濃の斎藤氏を破って稲葉山城を攻略し、井ノ口という地名を岐阜に改めた時期にあたります。
馬蹄形の枠のなかに四文字を篆書で刻んだ印で、国立公文書館が所蔵する『朽木家古文書』のなかにもこの印を押した朱印状が残っています。

四文字を提案したのは、政秀寺の開山であった沢彦宗恩という禅僧だと伝えられます。
おもしろいのは、信長が最初この案を渋ったという話です。理由は「四文字だから」。沢彦が「中国では四文字の印文は普通に用いられている」と説明して、ようやく採用になったと『政秀寺記』は伝えています。
ただしこの書物は近世に編まれたもので、信長と同時代の記録ではありません。

意味の解釈は分かれています。
武力によって天下に号令するという読み方が古くからの説ですが、一方で七徳の武を備えた者が天下を治めるという平和な世づくりの願いと読む説、さらに戦国期の「天下」は畿内を指す用例が多いことから、畿内に幕府を復興させる宣言だと読む説もあります。

そして重要なのは、この四字の出典となる漢籍が特定されていないことです。
天下布武は、既にある四字熟語ではありません。
作られた言葉なのです。

禄寿応穏(後北条氏)

禄寿応穏は小田原の後北条氏が印文に用いた四字です。
読みは「ろくじゅおうおん」。

領民の禄、つまり財産と、寿、つまり生命が、まさに穏やかであるように武威ではなく領国の平穏を掲げた文言です。
北条氏はこの四字の上に虎を据えた印を家の印として用いました。
世に言う虎朱印で、確認できる最古のものは永正15年(1518年)。
以後、氏綱・氏康・氏政・氏直と五代にわたって使われ続けました。

川崎市に伝わる北条氏直の文書に押された印は、虎の部分を含めた高さが9.2センチメートル、方形部分は縦7.4センチメートル、横7.3センチメートルという堂々たるものです。
現代の実印がせいぜい直径15ミリ程度であることを思えば、その大きさが想像できるかと思います。

禄寿応穏も辞書に載っている熟語ではありません。
北条氏が自分たちの統治理念のために作ったものだそうです。

七難八苦(山中鹿介)

尼子氏の家臣・山中鹿介幸盛が、三日月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという逸話で知られる文字です。

七難八苦はもともと仏教語で人が遭遇するさまざまな災難と苦しみを指します。
主家である尼子氏の再興という困難な志を前にあえて苦難を求めたという逸話は、江戸時代に講談などで語られ、戦前には教科書にも採用されました。
安来市の観光案内でも、鹿介を語るときの中心的なエピソードとして紹介されています。

ただし、この祈願そのものが同時代の史料に記録されているわけではありません。後世に形を整えて広まった逸話として読むのがいいかもしれません。

信玄や家康の四字が旗に書かれ、信長や北条氏の四字が印に彫られたのに対して、この四字はどこにも掲げられていません。
語り継がれるなかで、その人物を代表する四字になったという例だと考えられます。

大一大万大吉(石田三成)

石田三成の旗印として知られる文字です。

一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、天下は太平になる。
この解釈は広く知られていますが、近代以降に広まったもので、当時の意味を裏づける史料は確認されていないとも言われます。
大・一・万・吉という縁起のよい文字を組み合わせたものとする見方もあり、本来の意味は定まっていません。

また、これはしばしば石田家の家紋と誤解されますが、家紋ではなく旗印だとされています。三成の家紋は九曜紋とする説が知られています。

意味がはっきりしないままかっこいい文字の並びとして後世に残り、そこに後から解釈が与えられたとも考えられます。

掲げる文字と彫る文字

こうして並べてみると、戦国武将の四字熟語や漢字は大きく二つに分かれることがわかります。

一つは、旗や幟に書いて掲げる文字です。
風林火山、厭離穢土欣求浄土、大一大万大吉がこれにあたります。
戦場で遠くから見えることが前提なので、大きく、はっきりと、意味が伝わりやすいものが選ばれます。
そして出どころは、『孫子』や『往生要集』といった既にある書物です。

もう一つは、印章に彫って文書に押す四字です。
天下布武と禄寿応穏がこれにあたります。
押す相手は敵ではなく、家臣や領民や寺社。
文書の効力を示すためのものですから、掲げる文字とは求められる性質が違います。
そしてこちらは、既成の熟語ではなく自分で作った言葉が目立ちます。

自分の理念を四字に凝縮して、それを毎日の文書に押していく印文というのは、現代でいえば企業のコーポレートスローガンに近い性格を持っていたのかもしれません。

印に彫られた文字はいまどうなったか

では、印に文字を彫るというこの文化は、現代にどうつながっているのでしょうか。

まず、実印としてこうした四字熟語等を登録するということはできません。
印鑑登録の要件は市区町村の条例で定められていますが、たとえば立川市では、登録できるのは住民基本台帳に記録されている氏名の全部、氏、名、またはその一部を組み合わせたもので表されている印鑑とされ、職業や資格など他の事項を合わせて表しているものは登録できません。
天下布武と彫った印鑑を実印にすることはできないということです。

一方で、四字熟語等を彫る文化そのものが消えたわけではありません。
書画に押す落款印、書物に押す蔵書印、用途を限らない遊印には、文字の制限がありません。
好きな四字を彫ってよい世界がいまもそのまま残っています。

つまり、現代の日本では氏名を証明するための印と言葉を刻んで表現するための印が制度によって分かれています。

天下布武や禄寿応穏は、その二つがまだ一つだった時代の印です。

文書の効力を担保する公印でありながら、そこに自分の作った四字を彫ることができ、実印と落款印を兼ねたような存在だったと考えることができます。

まとめ

戦国武将の四字熟語等を追いかけると、それが何に書かれていたかで性格がまるで違うことが見えてきます。

風林火山は軍旗に書かれた十四文字の略称であり、厭離穢土欣求浄土は僧から授かった教えが旗印になったものです。
天下布武と禄寿応穏は印章に彫るために作られた言葉で、出典となる書物が特定されていません。
七難八苦は掲げられたものではなく、後世の語りのなかで武将と結びついたものです。

そして、印に彫るという使い方だけが、現代の印鑑制度によって形を変えました。氏名以外の文字を彫った印はいまは実印にはなりません。
戦国武将が印に自分の言葉を彫ることができたのは、その線引きがまだ存在しなかったからです。

とはいえ、今の時代でも自分の好きな言葉を印にすることはできます。やってみるのも面白いでしょう。

※旗印や印章の由来については諸説があり、本文の記述が唯一の定説であるとは限りません。本記事の情報を用いて行われた判断・行為により生じた損害について、当サイトは責任を負いかねます。

参考文献

山梨市「孫子の旗(山梨市の文化財)」 https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/site/cultural-assets/1658.html

甲府市「『風林火山』には続きがある!?」 https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/kamejii/035.html

岡崎市観光協会「大樹寺」 https://okazaki-kanko.jp/point/484

兵庫県立歴史博物館「古文書を読む―織田信長朱印状―」 https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/komonjo/

国立公文書館デジタルアーカイブ「織田信長朱印状(朽木家古文書)」 https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000612

岐阜市「織田信長公と岐阜」 https://cool-gifucity.jp/feature/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/p4826/

小田原市「北条氏五代100年の歴史」 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p09347.html

川崎市教育委員会「後北条氏の虎の印判状 天正十五年八月十八日付」 https://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000745.html

安来市観光協会「安来市の戦国武将 山中鹿介幸盛」 https://yasugi-kankou.com/spot/yamanakashikanosukeyukimori/

立川市「印鑑登録の手続き」 https://www.city.tachikawa.lg.jp/kurashi/koseki/1002118/1002151.html

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史な好きなこともあり、家紋についても解説しております。