禄寿応穏(ろくじゅおうおん)と虎の印判(虎朱印) 北条氏が押した戦国のハンコについて

戦国時代、小田原を本拠に関東一円を治めた北条氏(後北条氏・小田原北条氏)は、四角い印の上に虎がうずくまる独特のハンコを使っていました。

印面に刻まれた文字は「禄寿応穏」です。

この印が押された文書は「虎朱印状(とらしゅいんじょう)」と呼ばれ、神奈川・東京・埼玉・静岡など各地に今も伝わり、多くが自治体の文化財に指定されています。

このページでは、そんな禄寿応穏という文字は何を意味するのか?印はどれくらいの大きさだったのか?いつ誰が使い始めたのか?そして実際に何のために使用されたのか。

国や自治体、博物館が公開している資料をもとに、見ていきたいと思います。

「禄寿応穏」とは何か

読みは「ろくじゅおうおん」です。
旧字体では「祿壽應穩」と書きます。

読み下すと「禄寿、応(まさ)に穏やかなるべし」となります。

小田原市の解説では、禄は財産、寿は生命を指し、「禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように。人々が平和で暮らすという願いが込められている」と説明されています。

ただし注意しておきたいのは、この解釈を北条氏自身が書き残した文書が知られているわけではないという点です。

小田原市の解説も「込められていると言われます」という書き方をしており、断定はしていません。

この文字が領民に向けた宣言なのか、支配者側の自己規定なのか、その線引きまでは印文だけからは決まりません。

よく「北条氏は民のことを考えた大名だった」という文脈で引かれる言葉ですが、印文そのものは短い漢字四文字であり、そこから読み取れる範囲には限界がある、という前提で見るのが安全です。

印はどんな形でどれくらいの大きさだったか

構成はシンプルです。

上に虎がうずくまる姿があり、その下に「禄寿応穏」の四文字が配されます。虎は勇ましく吠える姿ではなく、しゃがみ込んだ姿勢で表現されています。
参考:https://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/hojo/p09347.html

大きさについては、川崎市教育委員会が同市に伝わる天正15年(1587)8月18日付の虎の印判状について、具体的な数値を公開しています。
それによると、虎の部分を含めた高さは約9.2センチ、文字が入る方形部分は縦約7.4センチ・横約7.3センチで、枠が二重になった「二重郭(にじゅうかく)」という構造です。
同教育委員会は「当時の印判の中でも堂々たるもの」と評しています。

神奈川県立歴史博物館の解説でも「縦横およそ7.5センチの方印の上に虎がうずくまる姿を配している」とあり、両者はほぼ一致します。

7センチ台の四角形というのは、現代の実印(一般に直径15ミリ前後)と比べると相当に大きく、法人の角印よりもさらに大きい部類です。

書状の日付の上にこの大きさの朱が押されれば一目で「北条家の文書だ」と分かったはずです。

いつ、誰が使い始めたのか

現在確認できる最古の虎の印判は、永正15年(1518)10月8日付で、伊豆の木負(きしょう。現在の静岡県沼津市西浦木負)に宛てられた文書に押されたものだと神奈川県立歴史博物館は説明しています。

ここで注意が必要なのは、発給者が誰かという点です。
小田原市の北条五代年表では、永正15年の項に「早雲、家督を氏綱に譲る。氏綱、2代当主となる」「氏綱、初めて虎朱印状を発給する」と記されています。
つまり、虎の印判の使用が確認できるのは二代・氏綱(うじつな)の代からであって、初代の伊勢宗瑞(いせそうずい。いわゆる北条早雲)が使ったことを示す確かな資料が示されているわけではありません。

「北条早雲の虎の印判」という言い方を見かけることがありますが、公的機関の解説はいずれも初見を氏綱の発給としているかと思います。
神奈川県立歴史博物館も「早雲から氏綱への代替わりとの関連が指摘される」という表現にとどめています。代替わりのタイミングと印の登場が重なっていることは事実ですが、そこから先の因果関係は推測の域を出ません。

以後、この印は三代・氏康(うじやす)、四代・氏政(うじまさ)、五代・氏直(うじなお)と受け継がれ、天正18年(1590)の北条氏滅亡まで、当主の印として使われ続けました。

約70年にわたって同じ意匠が使われたことになります。

なぜ「虎」なのかは分かっていない

意外に思われるかもしれませんが、虎が選ばれた理由について、はっきりした答えは出ていません。

小田原市、神奈川県立歴史博物館、国立公文書館のいずれの解説にも虎を採用した理由は記されていません。

永正15年が寅年にあたることや虎が霊獣とされてきたことを挙げる説明を見かけることはありますが、公的機関の解説がそれを定説として示している例は見当たりませんでした。

花押ではなく「印判状」という文書の形

武家の文書では本人が自筆で書くサイン、すなわち花押(かおう)を据えるのが基本でした。花押を記した文書を判物(はんもつ)と呼びます。これに対して、印章を押した文書が印判状です。

川崎市教育委員会の解説からは、その運用実態が読み取れます。
同市に伝わる虎の印判状には、日付の下に発行担当者の名が記され、その横に「奉之(これをうけたまわる)」と書かれています。
この担当者を奉者(ほうじゃ)といいます。
同教育委員会は、ある奉者が天文22年(1553)から永禄11年(1568)まで、別の奉者が天正15年から17年まで務めたことを確認しており、実名の分からない者もいます。

つまり、虎の印判が押された文書は当主本人が一枚ずつ押したものではなく、当主の命を受けた担当者が発行する仕組みでした。

虎の印判は実際に何を命じていたか

現存する虎朱印状の内容を並べてみると、この印が扱っていた事務の幅の広さが見えてきます。

税制を改める

小田原市が運営する「おだわらデジタルミュージアム」に、天文19年(1550)4月1日付の虎朱印状が収録されています。

三代・氏康が一色(現在の小田原市東町)の農民に宛てたもので、それまでの「諸点役(しょてんやく)」という税を廃止し、「懸銭(かけせん)」という新税を創設したことを伝える内容です。

同館の解説によれば、廃止された諸点役は「村の領主らが基準のないまま必要に応じ農民に賦課していたもの」で、かなりの重税でした。これに対して懸銭は税率が明確に定められたため、この改革によって農民の負担は確実に軽減されたと考えられています。
同様の文書は領内の他の村々にも出されました。

小田原市が公開する小和田哲男氏執筆の連載「新・北條五代記」でも、氏康が種々雑多な税を整理し、段銭(たんせん)と懸銭に整理統合したことが、天文19年の画期的な税制改革として紹介されています。
なお税率の具体的な数値についてはこの連載と前述の解説とで記述に差があるため、本記事ではふれないこととします。

職人を呼び出す

同じく「おだわらデジタルミュージアム」に、天正14年(1586)10月1日付の虎朱印状があります。五代・氏直が「御座敷の作事」のため、田原(現在の秦野市)の番匠(ばんしょう。大工のこと)である惣左衛門を小田原に呼び寄せたものです。同館は、小田原城の修理や整備に関わるものとみてよいとしています。

この文書は小切紙(こきりがみ)と呼ばれる小さな紙に書かれています。職人一人を呼ぶ程度の用件でも、虎の印判が押されていたことになります。

鯛を三枚

文化庁の「文化遺産オンライン」には、箱根町立郷土資料館が所蔵する「紙本墨書小田原北条虎の朱印文書」(町指定重要文化財、縦31.4センチ・横21.5センチ)が登録されています。
内容は、小八幡(こやわた。現在の小田原市小八幡)の小代官と百姓に宛てて、鯛三枚の調達を命じたものです。

戦国大名の公印が魚三枚の調達に押されているというのは、虎朱印が儀礼用の飾りではなく、日常の行政実務を回す道具だったことをよく示していると考えられます。

相続争いを裁く

国立公文書館のデジタル展示「歴史と物語」には、元亀3年(1572)6月21日付の「北条家裁許印判状(さいきょいんぱんじょう)」が収録されています。
北条氏の家臣・尾崎大膳(おざきだいぜん)の家督をめぐる争いについての裁定文書です。

討ち死にした大膳の家督を娘が相続することについて一族と相論(そうろん。訴訟)になり、結果として娘の相続が認められました。
同館は、年月日の箇所に押された朱印について、通称「虎の印判」と呼ばれる北条氏の印であり、「禄寿応穏」の文字の上で虎がうずくまっていると説明しています。

裁判の結論を伝える文書にもこの印が使われていたわけです。

軍装を整える命令

小田原市指定文化財の「北条家虎朱印状」(永禄4年〈1561〉10月11日付と推定)は、家臣の大藤式部丞(だいとうしきぶのじょう)と諸足軽衆に宛てたものです。
武田軍が北条氏支援のために出陣してくると見られる状況を受け、他国の軍勢と顔を合わせるのだから、着到(ちゃくとう。軍役)の規定通りに兵の数をそろえるだけでなく、軍装についても見苦しくないよう支度せよと厳しく命じています。

15歳から70歳までの徴発

天正15年(1587)7月晦日(みそか)付の「北条家定書(さだめがき)」も虎朱印状です。
豊臣秀吉との合戦に備えて兵力を確保するための文書で、同じ内容のものが相模・武蔵の各郷村に広く発給されました。
15歳から70歳までを徴発の対象とし、軍装についても細かく規定しています。

横須賀市の解説によれば、同市佐原に伝わる同時期の虎印判状には、佐原郷から4名を選んで名を書き出すこと、武器は弓・槍・鉄砲のうち得意なものを持参すること(ただし槍は二間=約3.6メートルより短いものは不可)、旗指物をつけて武士らしく支度してくること、勇猛な者を残して弱い者を差し出せば罰として首を切ること、といった条項が並んでいます。

同じ印が減税も動員も命じた

虎の印判が「北条家としての決定」を表示する記号として機能していたことは、前項の実例からも分かります。減税も、動員も、裁定も、鯛の調達も、すべて同じ印の下で発せられていました。

印は内容の是非を保証するものではなく、その文書が北条家の正式な指示であることを示す標識でした。
印文の四文字は、その標識に添えられた理念の表明です。
理念と実務が一致していたかどうかは、文書一通ずつを読んで判断するほかありません。

虎朱印だけではなかった

北条氏が使った印は虎朱印だけではありません。
「おだわらデジタルミュージアム」の解説によれば、氏康は隠居後に「武栄(ぶえい)」という印を用いており、永禄10年(1567)6月24日付でその印を押した朱印状が残っています。

当主が氏政に代わった後も氏康が権力を保持していたことを示す資料とされています。用途や立場に応じて印を使い分けていたことがうかがえます。

しるしとして見た虎の印判

印章そのものの話としても考えてみたいと思います。

虎の印判が興味深いのは、これが個人の印ではなく「家の印」だという点です。

氏綱から氏直まで四代にわたり、同じ意匠の印が使われ続けました。
当主が代わっても印は変わりません。
これは、印が特定個人ではなく「北条家」という組織を表していたことを意味すると考えられるかと思います。
現代でいえば、代表者が交代しても変わらない法人の代表者印に近い発想なのではないかと考えることができるかと思います。

そして、その印が押されているかどうかで文書の効力が決まるという「印影が真正性を担保する」という考え方は、書面に記名押印を求める現代の実務と発想としてはよく似ています。
花押のように書き手の技量に依存せず、誰が押しても同じ印影が出るからこそ担当者が代行でき、組織として大量の文書を処理できたと考えられます。

さらに、印面に理念を刻むという発想も注目です。
「禄寿応穏」は家の名前や個人の名前・役職ではありません。価値観や考えの表明だと考えることができます。
押されるたびにその文字も一緒に相手に届き、印章を単なる識別記号ではなく、メッセージを運ぶ媒体として使っている点は、現代の印鑑にはあまり見られない使い方でいいなと感じます。

もっとも、個人的な解釈もあるので、あくまで意見としてご覧いただければと思います。

まとめ

  • 「禄寿応穏」は「ろくじゅおうおん」と読み、「禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように」という願いが込められていると説明されている。ただし北条氏自身がそう説明した資料が知られているわけではなく、公的機関の解説も断定を避けている
  • 印は四角い印面の上に虎がうずくまる姿を配したもので、川崎市教育委員会の計測では虎を含む高さ約9.2センチ、方形部分は縦約7.4センチ・横約7.3センチ
  • 確認できる最古の使用例は永正15年(1518)10月8日、伊豆の木負宛の文書。発給者は二代・氏綱とされ、初代・早雲が使った証拠は示されていない
  • なぜ虎なのかについて定説といえるものは見当たらない
  • 押していたのは当主本人ではなく、当主の命を受けた奉者と呼ばれる担当者だった
  • 減税、職人の召集、食材の調達、相続の裁定、軍事動員まで、内容は多岐にわたる
  • 五代・氏直の代、天正18年(1590)の北条氏滅亡まで使われた

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の事案に対する助言やアドバイスではありません。歴史上の事実関係については研究の進展により見解が変わることがあり、印文の解釈や虎の意匠の由来などには諸説あります。本記事は執筆時点で公開されている公的機関の解説に基づいて記述しており、断定できない事項についてはその旨を明示しています。また、文化財の所蔵先・指定状況・公開の可否は変更されることがありますので、実際に見学を希望される場合は各施設に直接ご確認ください。当サイトは本記事の利用によって生じたいかなる損害についても責任を負いかねます。

参考文献

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史な好きなこともあり、家紋についても解説しております。