戦国大名は自分の命令等を伝える文書にハンコを押していました。
北条氏の虎の印判や織田信長の「天下布武」の印はよく知られていますが、甲斐の武田信玄が使っていたのは龍の朱印です。
この記事では、信玄の龍朱印がどんな印だったのか、何に使われていたのか、どのような形で文書に押されていたのかを自治体や博物館が公開している資料をもとに整理します。
龍朱印とはどんな印だったのか
龍の図柄が彫られた朱印
兵庫県立歴史博物館は、戦国大名の印判について解説するなかで、甲斐武田氏の文書には龍の図柄が描かれた朱印が押されており、そのため龍朱印状とも呼ばれると説明しています。
例として挙げられているのは、天正4年(1576)4月7日の武田家朱印状(山梨県立博物館蔵)です。
同館はあわせて、朱色の印肉で押された文書を当時の人々が「朱印状」と呼んでいたことも説明しています。文書の名前が「武田家朱印状」となるのは、そこから来ています。本サイトでは朱印状と黒印状の違いについても取り上げましたが、色によって呼び名が分かれるのは、この当時の感覚がそのまま資料名になったものです。
大きさは直径3.5センチほど
印そのものの寸法に触れた解説は多くありませんが、静岡県吉田町の文化財のページに記述があります。
同町が町指定文化財としている武田氏の朱印状の解説で、武田氏の朱印は龍紋であり、直径が3.5センチほどあると書かれています。
「直径」という書き方から、円形の印だったことがわかります。3.5センチというのは、現代のハンコの感覚でいえばかなり大きい部類です。
文字ではなく図柄で見分ける印だったとみられる
山梨県立博物館が公開している資料翻刻(ほんこく。古文書を活字に起こしたもの)を見ると、武田家の文書には「(龍朱印)」「(竜朱印)」とだけ注記されています。
一方で、同じ翻刻のなかには、印文(いんぶん。印に彫られた文字)がある印について朱印「晴信」のように文字を示したものや、読み取れないものを「印文未詳朱印」と書き分けたものが混じっています。この書き分けから見ると、龍朱印は文字ではなく図柄そのもので識別される印だったと考えられます。
ただし、印面に一切文字がなかったと断言できる公的な記述までは確認できていません。
信玄の父である信虎は「虎」、子である信玄は「龍」
信虎の追放と印の入れ替え
甲府市教育委員会歴史文化財課のスタッフブログ(信玄ミュージアムの公式サイトからも案内されている同課の情報発信)には、信玄が龍の朱印を使いだしたのは父信虎(のぶとら)を追放した後であり、信虎は「虎」の朱印を使っていたと紹介されています。
親が虎で、子が龍。関東の北条氏が虎だったことを思えば、なかなか印象の強い並びです。
ただし、なぜ龍を選んだのかについては同課自身が信玄の思いを伝えてくれる資料は見つかっていないと書いています。
水を司る神としての龍、甲斐の「竜王」という地名との連想など、いくつかの見方は紹介されていますが、いずれも確かめようのない話として扱われています。
ここは断定しないでおきたいところとなります。
印判状の仕組みそのものは信虎の代からあったと考えられる
印を押した文書を出すやり方自体は信玄が始めたものではありません。
山梨県の文化財データベースに載っている県指定文化財の西海文書(にしのうみもんじょ、富士河口湖町西湖区蔵)は2点あり、同県の説明では、命禄(めいろく)元年(1540年)に武田信虎が、天文(てんぶん)22年(1553年)に武田信玄が、それぞれ西の海衆に宛てた印判状(いんぱんじょう)とされています。
つまり信玄の代に起きたのは、印判状という手法の導入ではなく、押される印の図柄が替わったことだと整理できます。
父の印を廃して自分の印を作る。代替わりの宣言としては、これ以上ないほどわかりやすい方法です。
なお山梨県は、企画展の紹介文のなかで、山梨では武田氏の時代に印判状による支配のしくみが整えられたと説明しています。
図柄の話にとどまらず、仕組みとして定着したのがこの時期だという位置づけです。
「甲斐の虎」と呼ばれるのに印は龍
引っかかる方もいるかと思いますが、武田信玄といえば「甲斐の虎」です。
一方で、ライバルである上杉謙信は「越後の龍」です。
虎と呼ばれた人物が龍の印を使っています。
甲斐の虎、この呼び名は後からできたものだと言われています。
甲府市教育委員会歴史文化財課のブログは、「懸かり乱れ龍(かかりみだれりゅう)」の旗を使った謙信が「越後の龍」なら信玄は「甲斐の虎」となるが、謙信の元の名に「虎」が使われていたことから「越後の虎」「甲斐の龍」となることもある、と紹介したうえで、こちらの表現も「信玄堤」と同じく江戸時代以降のものだと説明しています。
呼び名の向きが資料によって逆になるというのは、同時代に定着した異名ではなかったことの裏返しでもあるのかと思います。
そもそも「龍」と「虎」を一対にして並べるのは古くからある言い回しです。
栃木県立美術館の作品解説によれば、『易経(えききょう)』にある「雲は龍に従い、風は虎に従う」の一節が宋の時代に絵画化されて広く流布し、龍虎図として描かれるようになったとあります。
力の拮抗する二者を並べるなら龍と虎という型が先にあったわけです。
そこへ、川中島で戦った二人という格好の題材が乗ります。
日本芸術文化振興会の文化デジタルライブラリーによれば、明和3年(1766)に竹本座(たけもとざ)で初演された『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』は、越後の上杉家と甲斐の武田家を軸に組み立てられた時代物で、近松半二(ちかまつはんじ)らの作。
角書(つのがき)には「武田信玄長尾謙信」と据えられています。
この演目は今日まで上演が続いており、江戸時代を通じて二人の対決が芝居の定番であり続けたことがわかります。
ただし、「甲斐の虎」「越後の龍」という言い方そのものがどの作品のどこで生まれ、どう広まったのかを示す資料までは確認できませんでした。
江戸時代以降に定着した通称である、というところくらいまでとなります。
いずれにせよ、信玄本人が「虎」を名乗っていたわけでも虎を掲げていたわけでもありません。
彼が実際に文書に押していたのは龍です。
後世の呼び名と当時の印は切り分けて見ておく必要があります。
いつからいつまで使われたのか
天文11年の文書が残っている
山梨県立博物館の企画展「印章-刻まれてきた歴史と文化」の展示資料目録には、天文11年(1542)の武田家朱印状が同館蔵として載っています。
信虎が追放されたのが天文10年ですから、その翌年にはもう武田家名義の朱印状が出ていたことになります。
ただし、これが龍朱印の最も古い使用例だと言い切れる公的な記述までは確認できませんでした。「遅くとも天文11年には使われている」という押さえ方がよろしいかと思います。
翻刻で確認できる龍朱印の文書
山梨県立博物館の資料翻刻から、龍朱印が押されていると注記されている文書には、たとえば次のようなものがあります。日付の下にある名前は、後述する奉者(ほうじゃ)です。
| 年 | 日付 | 奉者など | 内容の要点 |
|---|---|---|---|
| 天文11年(1542) | 閏3月15日 | ― | 過所(かしょ・通行に関する文書)。馬一疋分の諸役について |
| 弘治3年(1557) | 3月10日 | 晴信の名を記す | 信州水内郡葛山での戦功に対する感状 |
| 永禄元年(1558) | 6月1日 | ― | 屋代・新戸両郷の地下人の他所徘徊を停止 |
| 永禄11年(1568) | 6月7日 | ― | 山本菅助宛。具足・喉輪など出陣の支度を指示 |
| 永禄11年(1568) | 11月17日 | 春日弾正忠(かすがだんじょうのちゅう) | 市川新六郎宛。本領と替地について |
| 永禄12年(1569) | 10月12日 | 土屋(つちや) | 市川新六郎宛。鑓の長さや鉄炮の玉薬など軍役の定め |
| 元亀2年(1571) | 3月6日 | 原隼人佑(はらはやとのすけ) | 朝比奈駿河守宛。本百姓を元のように召し返すこと |
| 元亀4年(1573) | 11月23日 | 山県三郎兵衛尉(やまがたさぶろうひょうえのじょう) | 長篠籠城での戦功に対し、西三河での宛行を約束 |
| 天正2年(1574) | 正月11日 | 土屋右衛門尉 | 山神郷宛。普請役を免除する代わりに川除を勤めること |
| 天正4年(1576) | 4月7日 | 市川備後守(いちかわびんごのかみ) | 祢津清次郎宛。宿次の普請や夜廻の番などの役を免除 |
| 天正8年(1580) | 12月21日 | 曽祢河内守(そねかわちのかみ) | 三井右近丞宛。土貢や諸役の赦免について |
並べてみると戦功への恩賞、軍役の指示、人の還住、普請役の免除と、内容がほとんど行政文書です。合戦の華々しさよりも、領国を回すための事務が主だったことがよく見えます。
遠江(とおとうみ)に出たときの例もあります。
先ほどの吉田町の解説によれば、元亀2年(1571)3月に出された朱印状は、斉藤四郎右衛門が知行する船一艘について諸役を免除する内容で、同町は、武田氏が遠州で発給した最初の朱印状である、と説明しています。
占領した土地で船を徴発せずに済ませるという実務的な文書です。
信玄の死後も押され続けた
表を見ると気づきますが、元亀4年(1573)や天正8年(1580)の文書にも龍朱印が押されています。
信玄が没したのは元亀4年ですから、印はそのまま次の勝頼の代でも使われていたことになります。
代が替わっても印が引き継がれたという点は、印が個人の持ち物というよりも家の権限を示す道具として扱われていたことをうかがわせます。
龍のほかにあった印
同じ翻刻には龍以外の印も出てきます。
ひとつは獅子朱印(しししゅいん)です。
龍王の河除け普請に関する文書に押されており、今福和泉守(いまふくいずみのかみ)が奉者として名を記しています。
この文書は年次が明らかでない形で収録されています。
もうひとつは印文「晴信」の朱印です。
諏方大祝(すわのおおほうり)に宛てた年頭の挨拶の書状などに押されており、さらに武田勝頼(かつより)の書状にも同じ「晴信」の朱印が押されたものが収録されています。
用途によって印を使い分けていた可能性はありますが、どういう基準で使い分けたのかを示す公的な説明までは確認できませんでした。
花押と印判はどう使い分けられていたのか
両方が並行して使われていた
兵庫県立歴史博物館は、印章の使用が始まったあとも江戸時代までは花押(かおう)も並行して使われ続けたこと、信長・武田氏・後北条氏の文書にも印を押したものと花押を据えたものの両方が多数残っていることを説明しています。
本サイトでも花押については別に取り上げていますが、印が花押を完全に置き換えたわけではありません。
実際、屋代左衛門尉に宛てた天文22年の書状には晴信の花押が据えられている一方、同じ屋代左衛門尉に宛てた永禄元年・永禄4年の朱印状には龍朱印が押されています。
相手によって使い分けていたのではなく、同じ相手に対しても両方が使われていました。
「掌中に瘡出来候間、印判を用い候」
おもしろい一文が残っています。
信玄の書状(五月四日付、龍朱印)に、掌中に瘡(かさ)が出来たので印判を用いたという趣旨の断り書きが入っているのです。
手のひらにできものができて筆が持てないから花押ではなくハンコで済ませた、ということになります。
同じ翻刻には勝頼の書状にも印判を用いた旨を書き添えたものが見えます。
ここから言えるのは、印判を使うことが相手に対して説明を要する行為だった場面があるということです。
花押のほうが丁寧で、印判は略式だったと一般化してよいかどうかまでは、この資料だけでは判断できませんが、わざわざ理由を書き添えているという事実そのものが当時の感覚をよく伝えていると感じます。
誰が龍朱印を押していたのか
本文を書いたのは本人ではない
兵庫県立歴史博物館は、信長の朱印状を例に、文書の文字自体を書いたのは本人ではなく、右筆(ゆうひつ)という書記役の家来がほとんどの場合に執筆したと説明しています。
当時の上流階級はみな右筆を抱えていました。
つまり、朱印状は最初から「本人が手を動かした文書」ではありません。
日付の下に並ぶ「奉之」
武田家の朱印状には、日付の下に「春日弾正忠奉之」「山県三郎兵衛尉奉之」「土屋右衛門尉奉之」「跡部大炊助(あとべおおいのすけ)」「原隼人佑奉之」「市川備後守奉之」「曽祢河内守奉之」といった家臣の名前が記されています。
「奉之」は、これを承るという意味です。
主君の意思を承った家臣が、その旨を文書にする。この形式の文書を奉書式(ほうしょしき)朱印状と呼びます。
丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版)には「奉書式朱印状の創出と諏方郡司」「武田氏の領域支配と取次-奉書式朱印状の奉者をめぐって-」という章が置かれており、誰が奉者を務めたかという問題が領国支配の構造そのものを読む手がかりとして扱われています。
印影はどこで見られるか
文章だけではどうしても伝わりにくいので、実物の写真が公開されている場所を挙げておきます。
兵庫県立歴史博物館の「ひょうご歴史ステーション」では、後北条氏の虎の印判状と武田氏の龍朱印状が並べて図示されています。
関東の虎と甲斐の龍を見比べるにはここが早いです。
https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/komonjo/theme/
文書全体の写真であれば、静岡県吉田町の文化財のページに、元亀2年の朱印状の画像と翻字(ほんじ)が掲載されています。
https://www.town.yoshida.shizuoka.jp/2251.htm
山梨県の企画展の案内ページにも、山梨県立博物館所蔵の武田家朱印状の写真があります。
https://www.pref.yamanashi.jp/kenhaku/r4/0311kenhaku.html
いずれも各機関が権利を持つ画像であり、当サイトでは転載せずリンクのみとしています。
現代でいうところの会社の代表者印と似たようなものと考えることもできる?
会社の代表者印を社長が自分で押しているとは限りません。
総務の担当者が押していてもその会社の文書として通用します。
印は誰が押したかではなく、どの権限で出された文書かを表示するものだからです。
実際のところどうだったのか?までは確証はありませんが、戦国の印判状もそこは同じように考えることもできるかとは思います。
文書の量が増え、本人がいちいち署名していられなくなったときに権限の表示を印に肩代わりさせるという考え方は理にかなっているかと思います。
まとめ
武田信玄が使った朱印は龍の図柄が彫られた直径3.5センチほどの印で、これが押された文書は龍朱印状とも呼ばれます。
父・信虎は虎の朱印を使っていたとされ、信玄は追放の後に龍へ切り替えたと紹介されていますが、なぜ龍だったのかを伝える資料は見つかっていません。
どのような場面で使われていたのかということに関しては、残っている資料を並べると、戦での恩賞、軍役の指示、普請役の免除と、内容の大半は領国を回すための事務です。
日付の下には奉者の名が記され、本文は右筆が書き、そこに家の印が押され、印は、誰が押したかを示すものではなく、どの権限で出された文書かを示すものとして機能していたと考えられます。
そして信玄の死後も龍朱印は押されました。
個人の持ち物ではなく、家の権限の表示だったからでしょう。
歴史上で使われた印鑑の事情について考えるのはなかなか味わい深いところです。
※本記事は、執筆時点で確認できた公的機関の公開資料および研究文献にもとづく一般的な情報提供を目的としたものです。歴史上の事柄や印の由来については諸説あり、資料によって説明が異なる場合があります。また、古文書の翻刻や年次の比定は資料・研究者によって異同があり、本文で挙げた内容がすべて確定した事実であるとは限りません。
参考・出典
兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」古文書を読む-織田信長朱印状- テーマ解説
https://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/digital_museum/komonjo/theme/
吉田町「武田氏の朱印状」(町指定文化財)
https://www.town.yoshida.shizuoka.jp/2251.htm
甲府市教育委員会歴史文化財課スタッフブログ「信玄公の朱印が『龍』なワケ(その1)」
https://blog.goo.ne.jp/rekishibk/e/82dbbc2b5b8062b96450173afc38be39
同(その2)
https://blog.goo.ne.jp/rekishibk/e/ecbc1e6ce952d29d6687c5ad13aef7e8
甲府市「甲府市武田氏館跡歴史館(信玄ミュージアム)」(上記スタッフブログの掲載元)
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html
山梨県「山梨の文化財ガイド(データベース)西海文書」
https://www.pref.yamanashi.jp/bunka/bunkazaihogo/bunkazai_data/yamanashinobunkazai_wc0003.html
山梨県「山梨県立博物館企画展『印章-刻まれてきた歴史と文化』」
https://www.pref.yamanashi.jp/kenhaku/r4/0311kenhaku.html
山梨県立博物館 企画展「印章-刻まれてきた歴史と文化」展示資料目録
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/kikaku/innsyou_mokuroku.pdf
山梨県立博物館 資料翻刻
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/24honkoku.pdf
丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』思文閣出版
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784215539/
文化デジタルライブラリー(日本芸術文化振興会)人形浄瑠璃 文楽 歴史「過渡期」
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc26/rekishi/rekishi4.html
栃木県立美術館 収蔵作品「龍虎図」
https://www.art.pref.tochigi.lg.jp/collection/title/0015.html

