朱印船貿易の朱印状とは?徳川家康が出した「海外渡航許可証」を解説

本サイトでは戦国武将のハンコとして朱印状を取り上げたことがありますが、朱印状のなかには、陸の上ではなく海の上で効き目を発揮したものがあります。
それが朱印船貿易の朱印状です。

江戸時代のはじめ、日本の商船が東南アジアへ出ていくには幕府が出した一枚の紙を持っていく必要がありました。
これがなければ海賊船と区別がつきません。

行政書士として許認可を扱う立場から、こうした過去の許可証等に興味を持つにいたりましたが、誰に何を許すのかを一枚の紙で示し、その控えを役所が帳面で管理している点など、仕組自体も今と似通っていて面白いなと感じます。

この記事では、朱印船に持たされた朱印状が実際にどういう文書だったのかを現存する資料の記録をもとに整理していきます。

朱印船の「朱印」は、幕府が出した渡航許可の印

朱印状を持っていた船だから朱印船

朱印船(しゅいんせん)とは、幕府から海外への渡航を認める朱印状を交付された貿易船のことです。この朱印状は「異国渡海朱印状(いこくとかいしゅいんじょう)」と呼ばれます。

呼び名の順序に注意してください。
朱印船という船の種類が先にあったのではなく、朱印状という文書を持たされた船が、そう呼ばれたということです。
文書が船の身分を決めていました。

渡航先は、安南(あんなん)、交趾(コーチ、現在のベトナム中部)、暹羅(シャム、現在のタイ)、呂宋(ルソン、現在のフィリピン)、柬埔寨(カンボジア)、高砂(たかさご、現在の台湾)など、東南アジアの広い範囲に及んだとされます。

現存する実物の朱印状は意外と大きい

朱印状というと巻紙にちょこんと押された小さな印を想像するかもしれませんが、実物はかなりの大きさです。

九州国立博物館が収蔵する「徳川家康交趾渡海朱印状(とくがわいえやすこうちとかいしゅいんじょう)」は、慶長19年(1614)の紙本墨書(しほんぼくしょ)で、縦43.4センチ、横60.0センチ。掛軸に仕立てられた1幅として伝わっています。

A3の紙が縦29.7センチ、横42センチですから、それよりもひと回り大きい紙面です。
船に持たせる証明書としてはかなり堂々とした大きさだったことになります。

何が書かれていたのか

本文は一行であとは日付と朱印

内容は驚くほど簡潔です。「日本より交趾国に至る船である」という趣旨の一文と、年月日、そして朱印となります。
基本的にはそれだけの形式だったとされます。

現代の許可証を想像すると、氏名、住所、許可番号、条件、有効期限などがずらりと並びます。
朱印状はそうではありません。
書かれているのは、どこへ向かう船かということと、日付だけです。

さらに特徴的なのが、船主の名前が本文に書かれていない例が知られていることです。
「この者に許可する」ではなく、「この船は日本から○○国へ行く船である」と書いてあり、人ではなく船に対する証明書に近い書き方です。

海の上で言葉の通じない相手にひと目で示すための紙だと考えると、この簡潔さは理にかなっているともいえるかと思います。長い条文が並んでいても、現地の役人や他国の船には読めない可能性があります。

様式そのものに意味があった

短い文書ですが、書き方は厳密に決まっていたようです。

幕府は、交付した朱印状の控えを帳面に残していました。国立公文書館が所蔵する『異国渡海御朱印帳(いこくとかいごしゅいんちょう)』は、その控帳を文政10年(1827)に書き写したもので、同館の解説によれば、朱印状の文面だけでなく、用紙、字くばり、朱印の位置まで正確に写しているとされています。

文面だけを写せば内容の記録としては足ります。それでも字くばりや朱印の位置まで写したということは、その配置自体が朱印状という文書の要素だと認識されていたということでしょう。

これは現代にも同じような感覚があるかと思います。
現代の許認可等も申請書や許可証の様式が決まっていて、どこに何を書き、どこに押印するかまで指定されている場合があります。中身さえ合っていればよいというものではないということです。
形式そのものが文書の正しさを支えているという発想は、この時代からすでにあったのかもしれません。

何のための許可だったのか

朱印状には、内向きと外向きの二つの顔がありました。

国内向けには、正規の貿易船だという証明

当時の東アジアの海には、倭寇(わこう)と呼ばれた海賊の活動の記憶がまだ生々しく残っていました。日本から来た船というだけでは相手国にとっては警戒の対象です。

幕府が朱印状を出すということは、この船は自分たちが把握している正規の船だと国内的に確定させることでもあります。裏を返せば、朱印状を持たない船は正規の船ではないという線引きができるようになります。

許可制というのは本来そういう仕組みです。
全部を禁止したうえで、審査を通ったものだけを解除する。
現代でもある古物商許可等でも構造は同じで、許可を受けた者と受けていない者の間に線を引くことが制度の中心にあります。

国外向けには保護を求める文書

もう一つの顔が対外的なものです。
日本の将軍が発給した文書だと相手国に示し、寄港や取引の便宜、航海の安全への配慮を求めるという役割があったと考えられています。

ただし、日本の幕府が出した紙が外国の港でそのまま効力を持つわけではありません。相手側がその文書を信用してくれてはじめて意味を持ちます。

そのため、朱印船制度は相手国との了解を取り付けたうえで運用されていたとされます。文書の効き目が、発給者の権威と、相手方の承認の両方に支えられていたわけです。

現代でも、日本の運転免許証がそのまま海外で通用しないのと同じで、許可の効力は、それを出した国の権限が及ぶ範囲までしか届きません。朱印状はその限界を外交で埋めようとした文書だったことになります。

許可の範囲は「行き先」で切られていた

朱印状の本文に書かれていたのが渡航先の国名だという点は制度としてよく考えられています。

行き先が書いてあるということは、その行き先以外へ行く許可ではないということです。つまり、朱印状は行き先ごとに交付されていたことになります。控帳にも、交付の年月日と渡航先が一件ごとに記録されていたようです。

現代の許可もこの「範囲」の考え方で成り立っています。
酒類販売業免許なら、免許は販売場ごとに販売できるお酒の範囲が与えられ、販売できる酒類の範囲も定められます。そして、その販売場以外の場所では販売できません。古物商許可も、扱える品目の区分が決められています。何でも自由にできる許可というものは基本的にありません。

許可とは、禁止を解除する範囲を切り出す行為です。400年前の一行しかない文書でも、そこは省略せず、しっかりと明確にしているということです。

持っていたのは誰だったのか

朱印状を受けたのは幕府と関係の深い立場の人たちでした。

九州の有力な大名、京都や大坂、堺、長崎の豪商、それに日本に住んでいた外国人も名を連ねていたとされます。

長崎の末次平蔵(すえつぐへいぞう)や荒木宗太郎(あらきそうたろう)、京都の角倉了以(すみのくらりょうい)や茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、大坂の末吉孫左衛門(すえよしまござえもん)といった名前が知られています。

海外との交易は、船の調達から積荷の仕入れ、現地での交渉まで、莫大な資金と人脈を必要とします。誰でも申請すれば通るという制度ではなかったと考えるのが自然でしょう。

外国船に出された朱印状もあった

朱印状は日本から出ていく船だけのものではありませんでした。日本へ来る側にも出されています。

国立国会図書館の電子展示会「江戸時代の日蘭交流」によれば、慶長14年(1609)にオランダ船が平戸に到着し、同じ年に徳川家康が貿易を許可する朱印状を発行して、正式な通商が始まったとされています。
この朱印状は現在、オランダ国立公文書館に保管されています。

また、平戸オランダ商館の解説によると、慶長18年(1613)に来航したイギリス使節に対しても家康は渡航許可の文書を発給しており、日本のどこの港に寄港してもよいことが記されているとのことです。この原本はイギリスのオックスフォード大学ボドリアン図書館にあり、平戸市が複製を所蔵しています。

つまり、朱印状は、日本人の海外渡航許可としても、外国人の通商許可としても使われていました。ひとつの文書形式が、出る側と入る側の両方の許可に使われていたということです。

現代であれば、輸出の許可と外国事業者への営業の許可はまったく別の制度になります。当時はそこまで細かく分かれておらず、将軍の朱印が押された文書という一種類で処理していました。制度が単純だった時代の身軽さが見えます。

発給の事務を担っていたのは禅僧だった

朱印状を実際に作り、記録していたのは外交文書を扱う立場にあった禅僧たちです。

なかでも知られているのが以心崇伝(いしんすうでん)です。
京都の南禅寺金地院(こんちいん)の住持で、外交文書の作成に深く関わりました。
前掲の『異国渡海御朱印帳』の原本は、この崇伝が自ら書き写したもので、金地院が所蔵する重要文化財となっています。

ここで注目したいのが、控えを取っていたという事実です。

許可を出したら誰に、いつ、どこへ行く許可を出したのかを役所側も一覧で残して管理します。
控えがなければ、後から本物かどうかを確かめる手立てがありません。

400年前の制度がすでに発給と記録をセットで運用していたことになります。
そしてその帳面が残っていたおかげで現代の私たちは当時の制度の中身を知ることができています。記録を残す仕事の価値はこういうところにも出ます。

制度の終わり

朱印船の時代はそう長くは続きませんでした。

慶長18年(1613)、幕府は禁教令を全国に布達します。キリスト教への警戒が強まるにつれ、海外との人の行き来そのものが統制の対象になっていきました。

寛永8年(1631)以降は、朱印状に加えて老中の奉書(ほうしょ)を必要とする扱いになり、これを備えた船は奉書船(ほうしょせん)と呼ばれたとされます。寛永10年(1633)には、その奉書を持たない船の海外渡航が禁じられたとされ、朱印状だけで海に出るという仕組みは実質的に終わりました。

そして寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国が禁じられます。この時点で、渡航許可という制度自体が成り立たなくなりました。

許可の前提には、原則として禁止されている行為があり、それを個別に解除するという構造があります。行為そのものが全面的に禁じられ、例外を認めないとなれば、許可という仕組みは働く場所を失います。
朱印状が姿を消したのは、そういう理屈です。

なぜ黒ではなく朱だったのか

なぜ朱印状だったのでしょうか?

和歌山県立博物館の解説によれば、古文書に押された印には朱印と黒印があり、朱印のほうが格式の高いハンコとされていました。
同じ差出人でも、朱と黒で文書の重みが違ったということです。

国立公文書館の解説でも、花押(かおう)を据えた文書を判物(はんもつ)、朱印を押したものを朱印状、黒印を押したものを黒印状と呼び分けています。
家康が寺社に領地を寄進した文書には「源家康」の朱印が押されていました。

海外へ持ち出され、外国の役人の前で広げられる文書に、どちらの色を使うかという点においては国の代表として出す文書に格下の黒を使う理由はありません。

朱印船という呼び名が定着したのもその船を保証していたのが黒ではなく朱の印だったからです。
色が文書の格を表すという当時の常識は、朱印状と黒印状の記事で書いたとおりですが、その常識が海を越えるところまで持ち出されていたことになります。

まとめ

朱印船貿易の朱印状は、幕府が海外渡航を認めた許可証でした。

書かれていたのは、行き先の国名と日付、そして朱印だけ。九州国立博物館に伝わる慶長19年(1614)の実物は縦43.4センチ、横60.0センチという大きさで、船に持たせて相手国に示すための文書だったことがうかがえます。

その控えは幕府側の帳面に記録され、文面から朱印の位置まで写し取られました。許可を出して記録に残すという現代行政と同じような型は、この時代にすでにあったということです。

そして寛永12年(1635)の海外渡航の禁止によって、この制度は終わりました。禁止を解除するための仕組みが全面禁止によって存在意義を失ったということです。

一枚の紙と一つの印が、船一隻の身分を決めていた時代がありました。ハンコの効力という点では、今よりずっと強い時代だったのかもしれません。

参考・出典

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。朱印船制度の成立時期や発給された朱印状の総数、制度の運用実態については研究上さまざまな見解があり、資料や研究者によって説明が異なる場合があります。また、現代の許認可制度に関する記述は制度の考え方を説明するための一般的なもので、個別の手続きの取扱いは所管官庁の指示によります。個別の事案に対する法的助言ではありません。

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史な好きなこともあり、家紋についても解説しております。