机の上に朱肉とスタンプ台が並んでいる。どちらも赤い。
見た目はほとんど同じなのに、なぜ二つあるのでしょうか。そもそも、なぜハンコは赤で押すのでしょうか。
答えを先に書きます。
朱肉の赤は消えないための赤でした。
美しいからでもめでたいからでもありません。何十年経っても印影が変わらないこと——それだけを目的に選ばれた色です。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。製品の成分や使用上の注意はメーカーによって異なりますので、実際のご使用にあたっては各製品の説明をご確認ください。
朱の正体は辰砂という鉱物
朱肉の「朱」は、もともと辰砂(しんしゃ)という鉱物の色です。
化学的には硫化水銀。天然に産出する赤い鉱石で、古代から顔料として使われてきました。後には人工的に合成できるようになり、これを銀朱と呼びます。近年まで、朱肉にはこの工業的に作られた硫化水銀が使われていました。
面白いのは、辰砂は粒子が細かいほど鮮やかな朱色になるという性質を持っていることです。擦れば擦るほど色が冴える。ルネサンス期のヨーロッパには、何年もかけて辰砂を擦り続けたという話が残っています。
赤という色そのものは、日本でも古くから神聖なものとされてきました。
土器や埋葬品の着色に、ベンガラ(酸化鉄)や水銀朱が使われています。古墳の石室が朱で塗られているのも、同じ系譜です。
なぜ赤でなければならなかったのか
理由は三つあります。
ひとつめは墨に映えるから。
文書は黒い墨で書かれます。その上に押す印が黒では意味がありません。赤は、黒に対してもっとも鮮明に見える色です。
ふたつめは手に入ったから。
朱は古代の中国でも日本でも、比較的入手しやすい顔料でした。
そして三つめは退色しないから。
ここが、この記事でいちばん大事な部分です。
一般的な有機の色素は、紫外線を浴びると色が褪せていきます。数年で薄くなり、十年も経てば判別が怪しくなる。
ところが硫化水銀は違いました。太陽光に強く、長期間、鮮やかな朱色を保ち続けます。
なぜそれが重要だったのか。
印鑑という道具は、押した印影を後から照合するために存在します。契約書に押した印影と、印鑑証明書の印影を突き合わせる。何十年か経って相続が発生したとき、当時の書類の印影がまだ読めなければならない。
つまり、朱肉の赤は「照合のための赤」なのです。色が変わってしまえば、印鑑という仕組みそのものが崩れる。だから、多少扱いにくくても、退色しない顔料が選ばれ続けました。
赤は縁起がよいから、という説明をよく見かけます。それも間違いではないでしょう。
ただ、二千年にわたってこの色が残った本当の理由は、もっと即物的なものだったと思います。
現在の朱肉は水銀を使っていない
もっとも、硫化水銀には大きな問題があります。水銀そのものの毒性です。
とくに廃棄の際、焼却すると水銀が環境へ散逸することが懸念されてきました。水銀の使用を規制する国際的な枠組みもあります。
そのため近年では、鉄、モリブデン、アンチモンといった化合物に置き換わってきています。いま文具店で買える朱肉の多くは、水銀を含みません。
二千年使われてきた顔料が、この数十年で入れ替わった。そう考えると、いま手元にある朱肉はかなり新しい世代のものだということになります。
朱肉には三つの種類がある
ひとくちに朱肉といっても、中身は違います。
練り朱肉は、日本の伝統的なものです。銀朱や顔料に、植物や和紙の繊維を混ぜ、ひまし油や松脂などで練り固めます。もっとも印影が美しく、長期保存に向きます。
印泥(いんでい)は中国製のもので、練り朱肉とよく似ていますが材料が少し違います。書画の落款などに使われます。
スポンジ朱肉は、文具店や銀行でよく見かける簡易タイプです。インク状にした顔料をスポンジに染み込ませたもので、安価で速乾性に優れています。ただし色あせや、時間が経って印影が薄くなることがあり、水にも弱い。長期保存には向きません。
印鑑ケースに付いている小さな朱肉も、このタイプです。あれは「朱肉がないときの間に合わせ」と考えてください。重要な書類に押すときは、きちんとした朱肉を使ったほうがよいと言われます。
朱肉とスタンプ台は、似ているだけの別物

さて、本題のもうひとつです。
朱肉とスタンプ台は成分がまったく違います。
朱肉は油性顔料のみ。一方スタンプ台は、水性染料、水性顔料、油性染料、油性顔料と、用途に応じて四種類があります。紙だけでなく金属や布や革にも押せるよう開発されたものだからです。
歴史の長さも違います。
朱肉が古代中国から二千年以上の歴史を持つのに対し、スタンプ台が登場したのはゴム印の製造技術が確立した明治20年頃とされます。つまりスタンプ台は、ゴム印という新しい道具のために生まれた新しい道具なのです。
そして役割が違います。
朱肉は、何十年も残すための道具。スタンプ台は、たくさん押すための道具。同じ赤でも、設計思想が正反対です。
混ぜて使うとハンコが壊れます
ここは実用上大事な話です。

ゴム印に朱肉を使ってはいけません。
朱肉の油分がゴムを溶かし、膨張させて、印面を変形させてしまいます。早ければ一年ももたないといわれます。角印などでゴム製のものを使っている場合は、特に注意が必要です。
耐油性の黒ゴムを使うか、朱色のスタンプ台を使ってください。
逆に、木や水牛の印鑑にスタンプ台を使うのも避けたほうがよいとされます。スタンプ台のインクが印材を変質させる可能性があるためです。
そしてシヤチハタなどのインキ浸透印には、どちらも要りません。インキが内蔵されているので、薄くなったら専用の補充インキを足します。
覚え方は単純です。彫った印鑑には朱肉、ゴム印にはスタンプ台。
朱肉の扱い方
最後に手入れの話を少しだけ。
朱肉は意外とデリケートです。冬は固くなり、夏は軟らかくなります。湿気にも乾燥にも弱いです。直射日光の当たる場所や、暖房の風が当たる場所には置かないほうがよいでしょう。
そして押したあとは、印面の朱肉を拭き取ってください。柔らかい布や紙で軽く拭くだけで構いません。朱肉が付いたまま放置すると、印面に固まって印影が濁ります。
補充するときは、必ずそのメーカーの専用品を使ってください。朱肉もスタンプ台もメーカーごとに成分がまったく違います。別のものを足すと、分離したり固まったりすることがあります。
まとめ
- 朱肉の赤は、辰砂(硫化水銀)の色。人工的に合成したものを銀朱と呼ぶ
- 赤が選ばれた理由は、墨に映えること、入手しやすかったこと、そして退色しないこと
- 決定的なのは三つめ。印影は何十年も後に照合されるため、色が変わらないことが最優先だった
- 現在は水銀の環境への影響から、鉄・モリブデン・アンチモンなどの化合物に置き換わっている
- 朱肉には練り朱肉、印泥、スポンジ朱肉がある。ケース付属の小さな朱肉は間に合わせ
- スタンプ台はゴム印のために明治20年頃に生まれた別の道具。成分も役割も違う
- ゴム印に朱肉を使うと、油でゴムが溶けて変形する。早ければ一年
- 覚え方は「彫った印鑑には朱肉、ゴム印にはスタンプ台」
朱肉が赤いのは、鮮やかだからでも、めでたいからというものがメインの理由ではなく、ずっと消えないように。 そうした理由で鉱物を砕いた赤が二千年使われ続けてきたと考えられます。
ハンコという道具の性格がこの色ひとつによく表れていると思います。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。製品の成分や使用上の注意はメーカーによって異なりますので、実際のご使用にあたっては各製品の説明をご確認ください。
