豊臣秀吉のハンコ糸印(いといん)とは?明の生糸に添えられてきたとされる銅の印について解説【武将と印鑑シリーズ】

織田信長は「天下布武(てんかふぶ)」、北条氏は「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」、徳川家康は「福徳(ふくとく)」。

戦国武将のハンコには、印に彫った文字(印文)がよく知られているものが少なくありません。

では、豊臣秀吉はどんな印を押していたのでしょうか。

秀吉が出した朱印状の朱印は、「糸印(いといん)」と呼ばれる印だと文書を所蔵する博物館などが紹介しています。

糸印とは、明(みん)から輸入された生糸に添えられていたとされる銅製の印で、印面の文字はほとんど読めないとされるものです。

この記事では、糸印とはどんな印なのか、秀吉の朱印状にどのように押されているのかを公的機関が公開している資料で確認できる範囲で解説します。

秀吉の糸印に何と彫ってあるのか、いつから糸印を使い始めたのかといった点は、公開資料からは確かめられなかったため、可能な範囲での解説となりますがご了承ください。

秀吉のハンコ「糸印」で分かっていること・分かっていないこと

秀吉の朱印状に押された朱印は、文書を所蔵する博物館などの解説で「糸印」と呼ばれています。

一方で、その印に何と彫ってあるのか、いつから糸印を使っていたのかは今回参照した公開資料からは確かめられませんでした。

項目公開資料から分かること確認した資料
秀吉の朱印の呼び名「糸印」と呼ばれている文化遺産オンライン(大分市歴史資料館所蔵の朱印状)、石川県立歴史博物館
糸印とは中国から渡来したとされる銅製の印。高さ3〜4センチ、重さ50グラム前後で、つまみ(鈕)が付く文化遺産オンライン(弘前市立博物館所蔵の糸印)
糸印の文字判読できないものが多い文化遺産オンライン、阪南市
糸印の本来の用途明の生糸に添えられ、取引証に押したという説が有力。ただし十分には解明されていない阪南市
秀吉が朱印を使い始めた時期天正11年(1583)から。本格的な使用は天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの頃から名古屋市博物館
秀吉の糸印に彫られた文字分からない説明した公的資料は見つからず
最初の朱印から糸印だったか分からない同上
印の形・大きさ分からない同上
秀吉が糸印を使った理由分からない同上

糸印(いといん)とはどんな印か

糸印は、銅で鋳造(ちゅうぞう)した小さな印章です。

文化遺産オンラインで公開されている弘前市立博物館の糸印コレクション(210顆(か))の解説によると、糸印は高さ3〜4センチ、重さ50グラム前後の銅の印です。鈕(ちゅう)と呼ばれるつまみと印面があり、鈕は主に人物や動物をかたどっていて、紐(ひも)を通す穴があいています。

阪南市の解説では、鈕は人物や動物のほか器物をかたどったものもあり、印面の形は円形・方形・五角形・八角形などさまざまだとされています。
印面の文字は篆書体(てんしょたい)に似ていますが、解読できないものがほとんどです。

阪南市では実際に糸印が遺跡から出土しています。
箱作(はこつくり)の丘陵部にある飯ノ峯畑(いいのみねばた)遺跡で見つかった糸印は、高さ2.7センチで、唐獅子(からじし)の鈕が付いています。
印面は直径2.85センチの円形で、文字は解読できません。
鈕の形は違っても同じ印面のものがほかにも存在することから、個人の名前を彫ったものとは考えられないとされています。

糸印のほとんどは、古くから愛玩(あいがん)されて世に伝わってきた伝世品(でんせいひん)で、発掘調査で見つかるのは珍しいそうです。

何と彫ってあるのか読めず、同じ印面のものがほかにもあり、氏名を彫った印を一人一本登録する現代の実印とはずいぶん性格の違うハンコです。

なぜ「糸」の印なのか:明の生糸との関係

糸印の本来の用途は実ははっきりとは分かっていません。

阪南市の解説によると用途は十分に解明されていないものの、室町時代末期から江戸時代初期にかけて、明(みん)から輸入した生糸(きいと)に添えられ、この印を押したものを取引証として送り返した、という説が有力です。
明は、1368年から1644年まで続いた中国の王朝です。

「糸印」という呼び名も、この生糸との結びつきによるものと考えられます。
説のとおりであれば、糸印はもともと取引の証しとなる書類に押すための実務の道具だったことになります。

ところが糸印は、その後別の道をたどります。
阪南市の解説は、糸印には風雅な趣があるためコレクターも多く、武将や文人のあいだで私印としても用いられたとしています。
弘前市立博物館のコレクションの解説も、糸印は中国から渡来したと言われ、武将や文人らに珍重されたと説明しています。

取引のための印がその味わいを好まれて名のある人物の私的な印になっていくということで、秀吉の朱印もその流れのなかにあります。

秀吉の朱印状に押された「糸印」

秀吉はとにかく大量の文書を出した武将です。
名古屋市博物館によると、現物と写しを合わせて現在わかっている秀吉の文書は7000通ほどで、戦国武将のなかでも飛びぬけて多く残っています。
家臣に土地を与えたもの、戦いの様子や指示を伝えたもの、届けられた贈り物へのお礼など、内容もさまざまです。

そのなかで、朱印が「糸印」だと公的機関の解説に明記されているものを今回確認できた範囲で2点紹介します。

一つめは、文化遺産オンラインで公開されている大分市歴史資料館所蔵の豊臣秀吉朱印状です。
天正20年(1592年)4月28日付で、大友吉統に宛てたものです。
朝鮮へ渡るのに必要な船を商人の船も含めてできるだけ多く用意し、肥前名護屋へ向かわせるよう命じています。
『大友家文書録』によると、この命令を受けて大友氏がそろえた兵船は82艘に及んだようです。
解説には、日付の下に秀吉が使った有名な「糸印」の朱印が押されていると書かれています。

二つめは、石川県立歴史博物館が所蔵する豊臣秀吉朱印状(上木家文書)で、石川県の指定文化財です。
秀吉と北政所にお歳暮として着物2領が届けられたことへの礼状で、解説には、朱印は秀吉の印章で「糸印」と呼ばれていると書かれています。宛名の部分は、紙の下半分とともに切り取られて残っていません。

朝鮮へ渡る船を出せという軍事の命令にも、お歳暮へのお礼状にも、同じく「糸印」と呼ばれる朱印が押されています。

性格のまったく違う文書に、同じ呼び名の朱印が使われていたわけです。

秀吉の糸印には何と彫ってあるのか?いつから使っていたのか

はっきりしないことの多い部分です。

まず印文です。
糸印は文字を判読できないものが多い印ですが、秀吉が使った糸印に何と彫ってあるのか、あるいは読めない文字なのかを説明した公的機関の資料は今回は見つかりませんでした。
印の形や大きさも参照した解説には書かれていません。

次に時期です。
名古屋市博物館によると、秀吉が朱印を使い始めるのは天正11年(1583)からで、本格的に使うようになるのは天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの頃からです。
さらに、関白になった天正13年(1585)7月の頃からは、花押のみ、朱印のみの文書になるとされています。

ただし、同館の解説は秀吉の朱印全般についてのもので、その朱印が最初から糸印だったのか、別の印から途中で切り替えたのかまでは書かれていません。

秀吉がいつ、どこで糸印を手に入れたのか、なぜ糸印を自分の印にしたのかも、公開資料からは分かりませんでした。

なお名古屋市博物館では、全国の研究者と一緒に、すべての秀吉文書の活字化と編年(へんねん、年代順に整理すること)に取り組んでいるとのことです。研究が進めば、分かることが増えていくかもしれません。

信長・北条家・信玄・家康の印と並べてみると

本シリーズでこれまで紹介してきた印と並べてみると、秀吉の印の成り立ちがほかの武将とかなり違うことが分かります。

織田信長の「天下布武」は、出典となる漢籍が特定されておらず、既にある熟語ではなく作られた言葉だと考えられています。

北条氏の「禄寿応穏」も、領国の平穏という統治の理念のために作られた四字とされています。

徳川家康の「忠恕(ちゅうじょ)」は『論語』に出てくる語です。

武田信玄は龍の朱印(龍朱印(りゅうしゅいん))を使いました。

信長・北条・家康の印は、何と彫ってあるのかが分かっていて、その言葉の意味や出どころが語られてきました。
印が、その武将の掲げたものを読み取る手がかりになっているわけです。

これに対して秀吉の糸印は、少なくとも公開されている資料からは彫られた文字もその意味も読み取れません。
しかも糸印は、中国から渡ってきたとされる種類の印です。自分たちで言葉を選んで彫らせた印と、よそから来たとされる印。
同じ朱印でも、成り立ちがまるで違います。

また、名古屋市博物館によると信長が朱印と黒印の両方を使ったのに対し、秀吉は朱印だけを使っています。

朱印と黒印の違いについては、別記事「朱印状と黒印状の違いとは?」で解説しています。

秀吉の花押「悉(しつ)」は名前の音から作られた

秀吉は印とは別に、筆で書くサインである花押も使っていました。

名古屋市博物館は、一般的に相手に対する礼が篤い(あつい)のが花押で、低いのが朱印とされると説明しています。

福岡市博物館の解説によると、秀吉の花押は「悉」の字をもとにした一字体の花押です。
一字体とは、名前の一字や理想・願望を示す一文字を採って作る花押のことです。

面白いのは、この「悉」が、「秀吉」という名前から導き出された字だという点です。
同館の解説によると、「悉」は「秀吉」の文字を反切したものです。
反切とは、ある漢字の音を、別の漢字二字の音を組み合わせて示す方法です。
「悉」の音 sh-itsu は、上の字「秀」sh-u の声母(せいぼ、頭の子音)と、下の字「吉」k-itsu の韻母(いんぼ、頭の子音を除いた残りの部分)を合わせたものになっています。

少なくとも公開資料からは印に読み取れる言葉がない一方で、花押には自分の名前が音のかたちで織り込まれていたことになります。

糸印を使ったのは秀吉だけではない

阪南市の解説では、糸印は武将や文人のあいだで私印として用いられ、豊臣秀吉のほか、石田三成や毛利元就らのものが特に有名だとされています。

ただし、三成や元就がどの文書にどの糸印を押したのかまでは今回の資料では確認できていません。

糸印は多くの武将や文人に好まれた印で、秀吉もその一人だったと見ることができそうです。

まとめ

豊臣秀吉の朱印状に押された朱印は、所蔵機関の解説で「糸印」と呼ばれています。

糸印は、中国から渡ってきたとされる銅製の小さな印で、明から輸入された生糸に添えられていたという説が有力です。
印面の文字は判読できないものが多いとされています。

秀吉は天正11年(1583年)から朱印を使い始めました。
天正20年(1592年)に朝鮮へ渡る船を用意させた命令やお歳暮への礼状には、「糸印」と呼ばれる朱印が押されています。

一方で、秀吉の糸印に何と彫ってあるのか、いつから糸印を使ったのか、なぜ糸印を選んだのかは、公開資料からは分かりません。

信長・北条家・家康が、自分たちの掲げる言葉や古典の語を印に彫ったのに対し、秀吉は中国から来たとされる種類の印を自分の朱印にしました。
その一方で花押には、「秀吉」の名前の音から組み立てた「悉」の字を使っています。

少なくとも公開資料からは言葉の読み取れない印と、名前を織り込んだ花押。秀吉は、ハンコの面でも信長・家康とはひと味違う武将だったといえそうです。

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、記事中の文書の年月日・所蔵先・印の呼び名などは、各機関が公開している情報(2026年9月時点)に基づいています。糸印の本来の用途や伝来には諸説があり、秀吉の印の使用時期などについても、新たな史料の発見や研究の進展によって説明が変わる場合があります。秀吉の糸印に彫られた文字など、公開資料で確認できなかった点は、本文中にその旨を明記しています。実物の閲覧を希望される場合は、各所蔵機関に展示・公開の状況をご確認ください。本記事の内容に基づいて生じたいかなる損害についても、当サイトは責任を負いかねます。

参考・出典

  • 文化遺産オンライン「豊臣秀吉朱印状」(大分市歴史資料館所蔵) https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/112414
  • 文化遺産オンライン「糸印」(弘前市立博物館所蔵) https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/434710
  • 石川県立歴史博物館「豊臣秀吉朱印状(上木家文書)」 https://ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00469
  • 阪南市「箱作・飯の峯畑遺跡から出土した糸印」 https://www.city.hannan.lg.jp/kakuka/syogai/syogai_s/bunkazai_shokai/bunkazai_arekore/1441176366680.html
  • 名古屋市博物館「常設展フリールーム 秀吉文書を読む」 https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/hideyoshi_monjo/
  • 福岡市博物館「No.346 花押と印章」 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/346/index.html

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史が好きなこともあり、歴史や家紋についても解説しております。