戦国武将も年賀状を出していた?戦国時代の年賀状

年末が近づくと、年賀状の準備が気になり始めます。
はがきで新年のあいさつを送る今の形は明治時代に郵便はがきが登場してから広まったものです。

では、それより前の戦国時代、武将たちは新年のあいさつをどうしていたのでしょうか。

調べてみると、武将の間でも新年の祝いの品と手紙のやりとりがありました。

徳川家康が新年の贈り物へのお礼として書いた手紙も今に伝わっています。その手紙の最後には、家康の花押が書かれていました。

この記事では、県の歴史資料館や博物館などが公開している資料をもとに、戦国武将の「年賀状」にあたる手紙の中身とそこに書かれた花押や押された印を見ていきます。

結論:はがきの年賀状はないが、新年のあいさつの手紙はあった

戦国時代にはがきの年賀状はありません。
日本で最初の郵便はがきが発行されたのは、明治6年(1873)12月1日です。

一方で、新年のあいさつを手紙で伝える習慣は戦国時代より前からあったとされます。
戦国時代の終わりごろには新年の祝いの品を贈り、受け取った側がお礼の手紙を返すやりとりがあったことが残された手紙からわかります。

ただ、当時の新年の手紙は今の年賀状とはいくつかの点で違います。

主な違いは次のとおりです。

比べるところ今の年賀状戦国〜江戸時代の新年の手紙
形はがき和紙に毛筆で書いた手紙
書く時期年内に出して元日に届ける年が明けてから書くのが一般的で、2月に届くこともあった
中身新年のあいさつと近況新年の祝いの言葉に、ほかの用件を書き添えることもあった
贈り物添えないのがふつう太刀や馬などの祝いの品とあわせてやりとりすることがあった
差出人のしるし名前花押など

ここからは、実際に残っている手紙を見ながらそれぞれの違いを確かめていきます。

家康が新年の贈り物に返したお礼の手紙

戦国武将の「年賀状」にあたる手紙として、わかりやすい例があります。
文禄2年(1593)正月7日付で徳川家康が藤堂高虎に宛てた手紙です。

岐阜県歴史資料館が所蔵していて、原文を活字に起こしたものと読み下し、現代語訳を公開しています。

新年の祝いに太刀・馬・鶴が届いた

手紙は次の一文から始まります。

「年頭之為祝儀太刀一腰・馬一疋幷鶴到来、祝着之至候」

「年頭の祝儀として太刀一腰(ひとこし)・馬一疋(いっぴき)ならびに鶴到来、祝着(しゅうちゃく)の至りに候」です。
新年のお祝いとして、高虎から太刀と馬、それに鶴が届いてたいへんうれしく思う、という意味です。

つまり、高虎が新年の祝いの品を贈り、家康がそのお礼を手紙で返したわけです。
今でいえばお年賀の品を送り、相手からお礼状が届いたようなものです。

なお、当時の暦は今と違う旧暦なので、この「正月七日」は今の1月7日ではありません。
富山市郷土博物館は、旧暦の正月は新暦の2月初めごろにあたると説明しています。

高虎は朝鮮に渡っていた

このとき高虎は豊臣秀吉の命で朝鮮に渡り、現地に在陣していました。
一方の家康は、秀吉に従って出兵の拠点だった肥前名護屋(今の佐賀県唐津市)にいました。
岐阜県歴史資料館の解説によると、当時の日本軍は朝鮮の義兵や明の援軍に苦戦していました。

戦いのさなかでも新年の祝いとお礼のやりとりが行われていたことになります。

お礼のあとに「用件」が続く

手紙はお礼だけでは終わりません。

後半では、高虎が知らせてきた明との和平の動きを「この上なくめでたい」と喜び、春に秀吉が朝鮮へ渡ったときに、くわしく話をうかがいたいと結んでいます。

なお、岐阜県歴史資料館によると、秀吉の渡海は結局実現しませんでした。

新年のお礼と、戦況にかかわる用件が1通に書かれているところが、今の年賀状とは違います。
広島県立文書館は、古い時代の新年の手紙は、新年の言葉よりも用件のほうが主で、正月に手紙を出すときに新年の言葉を入れるものだったと紹介しています。

最後には家康の花押

手紙の最後には、日付の「正月七日」に続いて「家康」の名と花押が書かれていて、宛名は藤堂高虎です。

花押は、自筆の名前の代わりに書くサインのようなもので、日本では10世紀ごろ(平安時代)から書かれるようになったとされます。

岐阜県歴史資料館のページでは、この手紙の花押を拡大した画像も見ることができます。

季節のお礼状には花押のほかに印を押したものもある

新年に限らず、季節の贈り物へのお礼の手紙はほかの武将のものも残っています。
見比べると、差出人を示すしるしが手紙によって違うことがわかります。

差出人届いたもの差出人のしるし紹介している機関
徳川家康新年の祝いの太刀・馬・鶴(藤堂高虎から)花押岐阜県歴史資料館
織田信長七夕の祝いの帷(細川藤孝から)黒印永青文庫
豊臣秀吉お歳暮の着物2領(結城秀康からとみられる)朱印(糸印)石川県立歴史博物館

信長は節句の贈り物に黒印状を返した

永青文庫(えいせいぶんこ)が2015年の展示で公開した、細川家に伝わる信長の手紙の一覧には、端午・七夕・重陽といった節句にかかわる黒印状が並んでいます。
七夕の祝いに細川藤孝が帷(かたびら)を献上したことにかかわる黒印状も、その一つです。

黒印状は、墨で印を押した文書のことです。新年だけでなく、節句にあわせた贈り物と手紙のやりとりもあったことがわかります。

朱印と黒印の使い分けについては、「朱印状と黒印状の違いとは?印の色が文書の格を表していた話を解説」で詳しく解説しています。

秀吉はお歳暮のお礼に糸印を押した

石川県立歴史博物館の解説によると、秀吉と北政所にお歳暮として着物2領が届いたことへのお礼の手紙に秀吉の朱印が押されています。
この印は「糸印」と呼ばれるものです。
宛名の部分は切り取られていますが、江戸時代の記録から結城秀康に宛てたものとみられています。

糸印については、「豊臣秀吉のハンコ糸印(いといん)とは?明の生糸に添えられてきたとされる銅の印について解説」で解説しています。

花押か印かは人や場面によって違った

今回見た3通では、家康の手紙は花押、信長と秀吉の手紙は印でした。
同じお礼の手紙でも、花押を書くか印を押すかは、人や場面によって違っていたようです。

なお、家康も印を使わなかったわけではありません。
家康が使った印については、徳川家康のハンコ「福徳(ふくとく)」と「忠恕(ちゅうじょ)」とは?2つの印の違いを含めて解説で紹介しています。

新年のあいさつは本来は会いに行くものだった

ここまで武将の新年の手紙を見てきましたが、新年のあいさつは本来、相手を訪ねて直接伝えるものでした。
富山市郷土博物館は、年賀状はもともと直接訪ねて新年のあいさつをするところを、略式に書面で済ませたものだと説明しています。

信長の安土城にも新年のあいさつの客が訪れた

戦国時代の新年のあいさつの様子は、織田信長の安土城にかかわる記録からもうかがえます。

滋賀県文化財保護課の職員による解説によると信長の茶の師匠でもあった津田宗及の茶会の記録『天王寺屋会記』に、天正6年(1578年)正月12日のこととして、次のような話が残っています。
宗及が新年のあいさつに行くと、天主やその近くの御殿を見せてもらったあと、黄金1万枚が積まれた座敷を見せられたというのです。

天正10年(1582)の正月には、信長は大名・小名を問わず銭100文ずつで御殿の御幸の間を見せたとされます。
この100文については拝観料ではなく信長への祝儀だったという説もあるそうです。

手紙は訪問の代わりだった

広島県立文書館によると、江戸時代の新年のあいさつも目下の者が目上の者を直接訪ねる「廻礼」のほうが手紙より多かったとされます。

それでも手紙が広まったのにはわけがありました。
廻礼には手間のかかる儀礼がともなううえ、自分があいさつ回りに出かけると自宅を訪ねてきた客をもてなせなくなります。
そのため、手紙のやりとりが広まっていったと考えられています。

もともと訪問が基本だったことから、新年の手紙の結びには「後日うかがってお祝いを申し上げます」という意味の決まり文句がよく使われたそうです。

新年のあいさつの手紙は平安時代からあったとされる

新年のあいさつを手紙で送る習慣は戦国時代よりずっと古くからあったとされます。

日本郵政グループは、明確な起源はわかっていないとしつつ、平安時代後期には対面を主としながらも新年のあいさつを手紙で交わすことがあったという記録が、当時の手紙の文例集に残っていると紹介しています。
広島県立文書館も年始に手紙を送る風習は11世紀ごろには存在していたとしています。

ただし、昔の新年の手紙は今の年賀状とは性格が違いました。
広島県立文書館によると、かつては新年の言葉よりも用件のほうが主で、正月に手紙を出すときに新年の言葉を入れるというものでした。
家康の手紙で、お礼に続けて明との和平の話が書かれていたのもこうした書き方の流れにあると考えられます。

同文書館によると、新年のあいさつだけを用件にした手紙が盛んに送られるようになったのは江戸時代になってからです。
日本郵政グループも、江戸時代には飛脚の仕組みが発達したことなどで、新年の手紙の習慣が庶民にも広まったと紹介しています。

江戸時代の新年の手紙には、今に通じる「型」があった

江戸時代の新年の手紙には、文章の組み立てに決まったパターンがありました。
広島県立文書館が紹介している組み立ては次のとおりです。

  1. 賀詞(がし)と呼ばれる、新年を祝う言葉を書く
  2. 相手の家族が無事に新年を迎えたことを祝う
  3. 自分の家族も無事に年を越したことを伝える
  4. 「旧年中はお世話になり……」といったお礼は、本文のあとの追伸部分に書く

今の年賀状にも、新年のあいさつ、家族の近況、昨年のお礼を書くことが多いのではないでしょうか。並べる順番は違っても、書く中身は江戸時代の手紙とよく似ています。

家康の手紙と同じ言い回しが江戸時代にも

広島県立文書館が江戸時代の新年の手紙の例として紹介しているものに、浅野因幡守長治(あさのいなばのかみながはる)の手紙があります。
「年頭の祝儀として鰹節十連が届き、うれしく思う」という内容から始まる手紙です。

家康の手紙の「年頭の祝儀として太刀・馬・鶴が届き、うれしく思う」とほぼ同じ言い回しです。
贈り物は太刀や馬から鰹節に変わっていますが、新年の祝いへのお礼の書き方は江戸時代にも受け継がれていたことがうかがえます。

この手紙にも長治の花押が書かれています。
また、お礼に続けて「こちらは変わりなく、自分も無事なので安心してほしい」と伝える一文があり、先ほどの組み立ての3にあたる内容が入っています。

書き出しの賀詞は今より長かった

江戸時代の新年の手紙は、書き出しの賀詞も今よりずっと長いものでした。
富山市郷土博物館が所蔵する江戸時代の手紙は、「新年之御吉慶目出度申納候」で始まっています。
同館によると読み方は「しんねんの ごきっけい めでたくもうしおさめそうろう」で、「明けましておめでとうございます」というような意味です。

広島県立文書館も、「改年」「改春」「青陽(せいよう)」などで始まるさまざまな賀詞の例を紹介しています。

はがきの年賀状と「元日に届く」しくみは明治から

年賀状がはがきになったのは、明治時代です。日本の近代郵便は明治4年(1871)に始まり、明治6年(1873)12月1日に最初の郵便はがきが発行されました。
郵政博物館によると、最初のはがきは今の往復はがきのような二つ折りで厚手の洋紙をまだ作れなかったため、薄い紙を折り重ねて強度を増したものだったそうです。

年内に書いて元日に届けるのは明治32年から

はがきが登場してからも、しばらくは年が明けてから年賀状を書いていました。
日本郵便の解説では、明治時代の約30年間は、年賀状は正月を迎えてから書いていたとされています。

その後、年賀はがきが増えて配達が忙しくなったことから、明治32年(1899)12月に、一定の期間に出された年賀はがきを元日に配達する「年賀郵便物特別取扱」が、一部の郵便局で始まりました。全国のすべての郵便局で取り扱うようになったのは明治38年(1905)、ポストに投函したものにも適用されるようになったのは明治40年(1907)です。

年内に書いて元日に届ける今の年賀状のスタイルは、まだ120年あまりの歴史ということになります。

「謹賀新年」のような短い賀詞も明治から

今よく使われる「謹賀新年」のような短い賀詞も、明治から広まったとされます。広島県立文書館によると、石井研堂(いしいけんどう)の『明治事物起源』では、明治3年の太政官(だじょうかん)の定めが起源とされています。元日などのお祝いの際に地方官が差し出す文書の書式が定められ、その短い賀詞が、簡潔さが求められるはがきに定着していったとされます。

なお、お年玉くじ付きの年賀はがきが初めて発行されたのは、昭和24年(1949)12月1日です。

今の年賀状に武将の手紙の雰囲気を取り入れるなら

武将のお礼の手紙には、名前の近くに花押が書かれたり、印が押されたりしていました。
今の年賀状でも、差出人の名前の近くに朱色の印のようなあしらいを入れると、和の落ち着いた雰囲気が出ます。
和風の年賀状のデザインには、印を押したような朱色の飾りが入ったものもよく見かけます。

和の雰囲気を出すなら、家紋を入れる方法もあります。年賀状に家紋を入れるときの考え方は、「年賀状に家紋を入れてもいい?」で解説しています。

ただ、何十枚もの年賀状に一枚ずつ手で押したり書き入れたりするのは、手間がかかります。和風のデザインがそろっていて、差出人の住所や名前の印刷にも対応した年賀状印刷サービスを使えば、手間をかけずに仕上げられます。

まとめ

  • 戦国時代に、はがきの年賀状はない。日本で最初の郵便はがきは、明治6年(1873)12月1日の発行
  • ただし、新年の祝いの品と手紙のやりとりはあった。文禄2年(1593)正月7日付で、家康が藤堂高虎からの太刀・馬・鶴に返したお礼の手紙が、岐阜県歴史資料館に残っている
  • 当時の新年の手紙は、年が明けてから書くのが一般的で、新年の言葉にほかの用件を書き添えることもあった
  • 差出人のしるしは手紙によって違い、家康の手紙は花押、信長と秀吉の季節のお礼状は印(黒印・朱印)だった
  • 新年のあいさつは本来、直接会いに行くもので、手紙はその略式だった
  • 江戸時代の新年の手紙には、賀詞、相手の家族の無事、自分の家族の無事、旧年のお礼という、今に通じる型があった
  • 年内に書いて元日に届ける今のしくみは、明治32年(1899)に一部の郵便局で始まった

形は違っても、430年以上前の武将たちも、新年の祝いとお礼を手紙で伝え合っていました。

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の事案に対する助言ではありません。歴史上の事実関係や史料の読み方には諸説あり、研究の進展によって見解が変わることがあります。本記事は、執筆時点で公的機関・博物館等が公開している解説をもとに記述しており、断定できない事項はその旨を示しています。史料の所蔵先や公開の状況は変わることがありますので、実物の見学や閲覧を希望される場合は、各施設にご確認ください。また、年賀状印刷サービスの内容・料金・受付期間は、各サービスの公式サイトでご確認ください。当サイトは、本記事の利用によって生じたいかなる損害についても責任を負いかねます。

参考資料

  • 岐阜県歴史資料館「11.徳川家康書状」 https://www.pref.gifu.lg.jp/page/2608.html
  • 岐阜県歴史資料館「藤堂佐渡守高虎宛徳川家康書状 翻刻・読み下し・口語訳」(PDF) https://www.pref.gifu.lg.jp/uploaded/attachment/392516.pdf
  • 広島県立文書館「収蔵資料で見る『年始』の歴史」(平成27年度第2回 収蔵文書の紹介、PDF) https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/zuroku/h27zuroku_nenshi.pdf
  • 富山市郷土博物館「博物館だより 第三十七号」 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori37/tayori37.htm
  • 永青文庫「平成26年度冬季展示『信長からの手紙 ~59通、一挙公開!~』出品一覧」(PDF) https://www.eiseibunko.com/images_exhibition/2014/2014winter_list.pdf
  • 石川県立歴史博物館「豊臣秀吉朱印状(上木家文書)」 https://ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00469
  • 秋田県公文書館「〔ミッション2〕『花押藪』(A280-71-1)」 https://www.pref.akita.lg.jp/pages/archive/74486
  • 滋賀県文化財保護課 仲川靖「第2回 安土城」(出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖「近江の城めぐり」) https://shiroexpo-shiga.jp/column/no02/
  • 郵政博物館「日本最初の郵便はがき」 https://www.postalmuseum.jp/column/collection/post_8.html
  • 日本郵政グループ JPCAST「年賀状の歴史|郵政にまつわるエトセトラ」 https://www.jpcast.japanpost.jp/2022/01/135.html
  • 日本郵便「手紙の書き方体験授業」Webサイト「郵便の豆知識 -年賀状-」 https://www.schoolpost.jp/lesson/knowledge/knowledge04

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史が好きなこともあり、歴史や家紋についても解説しております。