徳川家康のハンコ「福徳(ふくとく)」と「忠恕(ちゅうじょ)」とは?2つの印の違いを含めて解説【武将と印鑑シリーズ】

戦国武将のハンコといえば、織田信長の「天下布武(てんかふぶ)」や北条氏の虎の印判がよく知られています。

では、江戸幕府を開いた徳川家康は、どんな印を使っていたのでしょうか?

家康が文書に押した朱印としては、「福徳(ふくとく)」と「忠恕(ちゅうじょ)」という印文のものが知られています。

この記事では、二つの印がいつ、どんな文書に押されていたのかを自治体や博物館、大学図書館などが公開している資料をもとに整理します。

「福徳」とはどんな印か?

はじめに、福徳印についてみていきましょう。

年月日の下に押された「福徳」の朱印

文化庁が運営する「文化遺産オンライン」に、東京国立博物館が所蔵する「徳川家康朱印」という文書が載っています。
天正19年(1591年)に、家康が森山神社へ相模国三浦郡葉山郷(さがみのくにみうらぐんはやまごう、
現在の神奈川県三浦郡葉山町)の地3石を寄進した文書です。

同サイトの解説によると、この文書は折紙(おりがみ)と呼ばれる形式で書かれていて、年月日の下には見えにくいものの家康が用いた朱印「福徳」が確認できます。

大きさは縦横約5.6センチ

同じ天正19年の文書で印の大きさまでわかる例もあります。

神奈川県厚木市の八幡神社(はちまんじんじゃ)に伝わる家康の朱印状(しゅいんじょう)で、令和4年(2022)に厚木市の指定有形文化財になりました。

厚木市の解説によれば、この朱印状は天正19年11月に家康が八幡神社に宛てて出したものです。

一石五斗(いっこくごと)を寄進し、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を懇祈(こんき。心をこめて祈ること)する内容で、末尾の日付の下に「福徳」の印文をもつ、縦横約5.6センチの朱印が押されています。

5センチを超える印は、いまの個人のハンコの感覚からするとかなり大きなものです。

なぜ「福徳」なのかはわかっていない

「福徳」は、文字どおり「福」と「徳」を並べた言葉です。

ただ、家康がなぜこの二文字を印に選んだのかは、今回確認した公的機関の解説には書かれていませんでした。

文化遺産オンライン、厚木市、後で紹介する長野県立歴史館のいずれも、印文が「福徳」であることは記していますが、込められた意味には触れていません。

根拠となる資料がないため、家康自身がどういった意味づけで使っていたのかは不明ですが、文字面の意味合いとしては、「福徳」とは幸福と利益・財産に恵まれることという意味を持つとされています。

「忠恕」とはどんな印か?

続いて、忠恕印についてみていきましょう。

慶長5年の朱印状に押された「忠恕」

慶應義塾大学メディアセンターのデジタルコレクションには、反町文書の一つとして、徳川家康朱印状が画像付きで公開されています。
日付は慶長5年(1600年)5月25日で、差出の欄には家康の名とともに「朱印、印文『忠恕』」と記されています。
檀紙(だんし)に書かれた折紙で、現在は掛幅(かけふく)に仕立てられています。

国立公文書館のデジタル展示によれば、同じ慶長5年の9月15日には関ヶ原の戦いが起きています。

「忠恕」は『論語』に出てくる言葉だがなぜ忠恕を使ったのかはわからない

「忠恕」という語は、儒学の古典『論語(ろんご)』の里仁篇(りじんへん)に出てきます。
孔子(こうし)が弟子の曾子(そうし)に、自分の道は一つのことで貫かれている、と語った場面です。孔子が出ていったあと、その意味をほかの門人に尋ねられた曾子は、「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」、つまり先生の道は忠恕に尽きる、と答えています。

「忠」はまごころ、「恕」は思いやりと説明されることが多い言葉です。和歌山県立博物館は、家康の別の印を紹介するコラムのなかで、「恕」を「許す」という意味と説明しています。

言葉の意味としては、忠実で同情心が厚いことという意味とされていますが、家康がどんな思いでこの語を印に選んだのかを記した資料は、今回確認した公的資料の中には見当たりませんでした。

「恕」の字を含む印は一つではない

国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、「家康の印章に『忠恕』の文字が刻まれていたと聞いたが、どんな印影のものか」という質問への大阪市立中央図書館の回答が載っています。

それによると、『国史大辞典』には家康の印が複数紹介されていて、「忠恕」に関わるものとして「源家康忠恕(みなもとのいえやすちゅうじょ)」「恕家康」「忠恕」の3種類があるとされています。

このうち「恕家康(じょいえやす)」の実物を紹介しているのが、先の和歌山県立博物館のコラムです。慶長11年(1606)2月24日に、家康が芦川甚五兵衛公吉(あしかわじんごべえきみよし)に常陸国(ひたちのくに)の200石を与えた領地朱印状で、日付の下に「恕家康」と彫られた朱印が押されています。同館はこの印を「陽文重郭楕円印(ようぶんじゅうかくだえんいん)」と記しています。
文字の部分が朱く出る彫り方で、枠が二重になった楕円形の印という意味です。
そのうえで、家康はハンコによく「恕」の字を使ったと説明しています。

名前だけを彫った印もあります。国立公文書館は、家康が河内国(かわちのくに)の道明寺(どうみょうじ)に出した寺領寄進状を紹介し、その朱印を「源家康(みなもとのいえやす)」としています。

「福徳」と「忠恕」はいつからいつまで使われたのか

厚木市の解説では「福徳」は永禄12年(1569年)から文禄2年(1593年)まで

使用期間について、公的機関がはっきり書いているのが、先ほどの厚木市の解説です。同市は、この「福徳」の印を、永禄(えいろく)12年(1569年)から文禄(ぶんろく)2年(1593年)まで家康が使用していたものと説明しています。そのうえで、八幡神社の朱印状は天正19年に出されたものとして矛盾がないとしています。

20年以上にわたって使われた印ということになります。

福徳は家康文書の目録が「初見」とする永禄12年の朱印状

使い始めの年は、家康の文書をまとめた目録からもたどれます。公益財団法人徳川黎明会(とくがわれいめいかい)の徳川林政史研究所が公開している「徳川家康文書 総目録」(川島孝一編、2020年12月版)です。活字になった家康の文書を中心に、できるかぎり集めて年月日順に並べたもので、同会の前会長・徳川義宣(とくがわよしのり)氏がライフワークとしていた家康文書の収集・研究を受け継いで作られたと、同研究所は説明しています。

この目録では、永禄12年閏(うるう)5月付で舞坂(まいさか)に宛てた朱印状に「福徳」の印文が記され、備考欄に「『福徳』朱印の初見」と注記されています。舞坂は遠江国(とおとうみのくに)、現在の静岡県浜松市の地名で、この定書(さだめがき)の書き出しには伝馬(てんま)の語が見えます。厚木市の説明と同じ、永禄12年です。

2026年長野県立歴史館が「現存最古」の文書を公開

使い始めの時期については、新しい動きもあります。長野県立歴史館(千曲市)は2026年4月、徳川家康の使った朱印「福徳」の現存最古の文書を展示すると、同館のブログで告知しました。2025年度に同館へ寄贈された「野々山家文書(ののやまけもんじょ)」のうちの1通で、新収蔵戦国武将文書展(会期は4月25日~5月10日)で公開されました。この展示では、今川氏真(いまがわうじざね)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、仙石秀久(せんごくひでひさ)の文書もあわせて並びました。

ただし、同館のブログでは、この文書の日付や宛先までは紹介されていません。先の総目録(2020年版)も厚木市の解説(2022年公開)も、この公開より前にまとめられたものです。「現存最古」の文書がいつの日付なのか、それによって使い始めの時期の説明が変わるのかは、同館からの詳しい公表を待つ必要があります。

忠恕はいつからいつまで使われていたのかよくわからない

「忠恕」の使用期間を示した公的な解説は、今回見つかりませんでした。

確認できたのは、慶長5年(1600)5月25日付の朱印状に押された例です。

このため、「福徳」からいつ「忠恕」に切り替わったのか、二つの印が同時に使われた時期があったのかは分かりません。

「福徳」が押された文書にはどんなものがある?

総目録や自治体の解説をもとに、「福徳」の朱印が押された文書を年代順にいくつか並べると、次のようになります。総目録の記載には、写しとして伝わる文書も含まれます。

年月どんな文書か確認した資料
永禄12年(1569)閏5月遠江の舞坂に宛てた定書。総目録が「福徳」朱印の初見とする徳川家康文書 総目録
天正10年(1582)2月駿河の当目郷(とうめごう)に宛てた禁制(きんぜい)焼津市、総目録
天正10年(1582)3月~12月駿河・甲斐(かい)の寺院への禁制、甲斐国内の土地を宛てがう朱印状など総目録
天正17年(1589)7月~12月年貢の納め方などを定めた、同じ書き出しの定書総目録
天正19年(1591)11月相模・武蔵の寺社への寄進状。森山神社宛て、厚木の八幡神社宛てなど文化遺産オンライン、厚木市、総目録

天正10年駿河と甲斐で押された「福徳」

焼津市の解説によると、天正10年(1582)2月、武田方の木曽氏の離反をきっかけに、織田・徳川軍は武田氏の領国へ一気に攻め込みました。
徳川軍は16日に小山城(こやまじょう)、20日に田中城、21日に持舟城(もちふねじょう)を落としています。

焼津市が指定文化財としている家康の朱印状は、この21日付で当目郷(現在の焼津市内)に出された禁制で、進軍する徳川軍が郷内の住民に乱暴を働かないよう呼びかけたものです。
同じ日付で、安倍郡(あべぐん。現在の静岡市)の郷村にも、ほぼ同じ内容の朱印状が出されています。総目録にも、同じ日付で「とうめ郷中」に宛てた朱印状が載っていて、印文は「福徳」と記録されています。

総目録をさらに見ていくと、同じ年の3月3日付で、駿河や甲斐の寺院に宛てた「福徳」朱印の禁制がいくつも並びます。夏から年末にかけては、甲斐国内の土地を宛てがったり、元のとおり認めたりする朱印状が日を追って続き、印文が記録されているものは、ほとんどが「福徳」です。

短い期間に、これだけの数の文書を出していたことになります。
一通ずつ花押(かおう)を書くのではなく、印を押す形の文書がその実務を支えていたとみられます。

天正17年同じ日付で百件を超える定書

もっと極端な例もあります。

総目録には、天正17年(1589)7月7日の日付だけで、年貢の納め方などを定めた同じ書き出しの定書が、百件を超えて並んでいます。宛先は遠江や駿河などの村々です。

写しや、朱印状と推定されるものも含まれますが、原本が伝わるものの一部には「福徳」の印文が記録されています。
同じ書き出しの定書は、その後も年末にかけて続きます。
同じ文面を一度に大量に出す場面で、印を押す文書がどれほど役に立ったかをよく示す例といえそうです。

天正19年関東の寺社への寄進状

船橋市の文化財解説によると、天正18年(1590)7月に豊臣秀吉が北条氏を降して関東を平定すると、家康は同年8月に駿府から関東へ移され、江戸城に入りました。その翌年の天正19年、家康は領内の寺社に土地を寄進する文書を数多く出しています。

文化遺産オンラインは、先の森山神社宛ての文書について、関東に入国した家康がこうした形で領内の寺社を保護した、と説明しています。厚木市によれば、天正19年11月には、家康は相模国の寺社に所領を寄進する朱印状を92通も出していて、八幡神社の朱印状もそのうちの1通と考えられています。

総目録にも、この月の日付で相模・武蔵の寺社に宛てた寄進状がずらりと並びます。江戸の山王権現(さんのうごんげん)に宛てたもの(日枝神社に伝わる文書)にも「福徳」の印文が記録されています。

厚木市は、寺社に宛てた寄進の朱印状は明治時代になると政府に提出させられたため、地域に残っていないのが通例だとして、八幡神社の1通を極めて貴重な事例と位置づけています。この朱印状は、昭和40年代に厚木市史編さんの調査の際、本殿の中から見つかりました。慶応(けいおう)元年(1865年)8月に村役人たちが連名で朱印状を本殿に納めたときの添書も付いていて、あわせて文化財に指定されています。

花押の判物で出された寺社もある

ただし、この時期の寄進状がすべて朱印状だったわけではありません。

総目録では、同じ天正19年11月付の寄進状でも、東京都府中市の大國魂神社に伝わるものなどは、家康の花押を据えた判物として記録されています。

印を押すか、花押を書くか、寺社によって形式が分かれていたことは目録から読み取れますが、その基準を説明した公的資料は、今回確認できませんでした。

福徳と忠恕の2つの印の使い分けについて資料から言えること・言えないこと

ここまで見てきた印を、公開資料で確認できた範囲で整理します。

印文確認できた使用例・説明資料
福徳永禄12年(1569)から文禄2年(1593)まで使用。天正19年(1591)の寄進状など厚木市、文化遺産オンライン、総目録
忠恕慶長5年(1600)5月25日の朱印状慶應義塾大学メディアセンター
恕家康慶長11年(1606)2月24日の領地朱印状和歌山県立博物館
源家康河内国道明寺宛ての寺領寄進状国立公文書館
源家康忠恕『国史大辞典』に印影が載る(使用例は今回未確認)レファレンス協同データベース

並べてみると、「福徳」の使用は文禄2年までとされ、「忠恕」の使用例はそれより後の慶長5年の文書、という順になります。今回見た範囲では、「福徳」が先の時期に、「忠恕」や「恕」の字を含む印が後の時期の文書に現れています。

ただし、「忠恕」がいつから使われ始めたのか。文禄2年から慶長5年までのどこで切り替わったのか、二つの印が同時に使われた時期があったのかも、今回の資料からはわかりません。

また、「忠恕」「恕家康」「源家康忠恕」など、複数ある印を、文書の種類や相手によって使い分けていたのか、家康がそれぞれの語を印に選んだ理由についてもわかりません。

印の使用期間については、徳川義宣氏の論文「家康印章の使用期間と朱黒別(しゅこくべつ)について」(『日本歴史』531号、1992年)という専門の研究があることが、先のレファレンス協同データベースの事例で紹介されています。

まとめ

家康が長く使った朱印の印文は「福徳」でした。厚木市の解説では永禄12年(1569)から文禄2年(1593)までの使用とされ、遠江の定書から、甲斐の土地の宛てがい、関東の寺社への寄進まで、家康の勢力が広がっていく先々で押されていたことがわかります。

そのあとの時期の文書には、「忠恕」の朱印や、「恕」の字を入れた「恕家康」の印が現れます。
ただし、切り替わりの時期や使い分けの基準は、公開資料からはまだはっきりしません。
2026年には長野県立歴史館が「福徳」の現存最古の文書を公開しており、使い始めの時期の説明も、今後の公表しだいで書き換わる可能性があります。

日付の下に押された朱印をたどると、家康がどの土地で、誰に向けて文書を出していたのかが見えてきます。天下人のハンコは、権威のしるしであると同時に、広がる領国を治めるための実務の道具でもあったといえそうです。

免責

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、歴史上の文書の年代や印の使用期間には諸説あり、新たな史料の発見や研究の進展によって説明が変わる場合があります。記事中の文書の年月日・印文・所蔵先などは、各機関が公開している情報(2026年9月時点)に基づいています。ただし、展示・公開の状況は変わることがありますので、実物の閲覧を希望される場合は各所蔵機関にご確認ください。本記事を引用等し、その内容に基づいて生じたいかなる損害についても当サイトは責任を負いかねます。

参考・出典

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史が好きなこともあり、歴史や家紋についても解説しております。