豊臣秀長(羽柴秀長)の花押とは?ハンコ(印鑑)は使った?書状の署名と晩年の黒印を解説

2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で主人公として描かれている豊臣秀長(羽柴秀長)。兄の秀吉を支え続けた弟は、自分が出す文書にどんな「しるし」を残していたのでしょうか。

結論から言うと、秀長が文書に残したしるしの中心は名前の署名と花押(かおう)だったと考えられます。

花押は筆で書くサインのようなものです。
秀吉のように朱印状を数多く出した様子はうかがえず、亡くなる直前の病が重かった時期になって、花押の代わりに黒印を押した文書が現れると指摘されています。

この記事では、秀長の花押と署名の基本、「長秀」から「秀長」への名前の変化、そして晩年に現れた黒印について、博物館や自治体などの資料をもとに整理します。

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。豊臣秀長の文書の年代・署名・花押や黒印の扱いには諸説があり、研究の進展によって見方が変わることがあります。文書の所蔵や公開の状況は、各所蔵機関の最新の情報をご確認ください。本記事の内容によって生じた損害について、当サイトは責任を負いかねます。

豊臣秀長はどんな人物?

豊臣秀長は豊臣秀吉の弟で、通称は小一郎です。織田信長に仕えた兄のもとで各地の戦いに加わり、天正13年(1585)には大和・紀伊・和泉を治める大名として大和郡山城に入りました。
のちに大納言に進んだことから「大和大納言」とも呼ばれます。

兄の政権を内側から支えた人物として知られ、天正19年(1591)1月22日に郡山城で亡くなりました。

花押とは?ハンコ(印鑑)との違い

花押は名前の一字などを崩した形をもとにした手書きのサインで、書判(かきはん)とも呼ばれます。文書の最後に書き込み、その文書を出したのが本人であることを示すしるしでした。花押の成り立ちや現代での使われ方は、当サイトの別記事「花押」とは?で詳しく紹介しています。

戦国時代の文書は、しるしの付け方によっておおまかに次のように呼び分けられています。

呼び方しるしどんな文書か
判物(はんもつ)花押領地を与える・権利を認めるなど、改まった用件で出す花押のある文書
書状署名と花押手紙。差出人が名前と花押を書く
朱印状朱色の印朱肉で印を押した文書
黒印状黒色の印墨で印を押した文書

戦国大名の中には印を押した文書を大量に出した家もありました。たとえば小田原の北条氏は、「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」の文字を刻んだ虎の印判を代々使い続けました(北条氏の虎の印判の記事)。

兄の秀吉も天下人として多くの朱印状を出しています。
国立国会図書館が運営するレファレンス協同データベースに三田市立図書館が登録した調査事例でも、秀吉は朱印を用いたが黒印についてははっきりとは分からないという回答になっています。

一般に花押は本人が筆で書くものなので、印を押した文書よりも丁寧な形と受け止められていたとされています。

秀長が文書に書いた「署名」と「花押」

秀長が出した書状は、本文の後に日付を書き、その下に自分の名前と花押を記すのが基本の形です。

この時代の書状は、本文を右筆(ゆうひつ)と呼ばれる書記役の家臣が書き、差出人は名前や花押だけを自分で書くことが多かったとされています。
兵庫県養父市に残る「長秀」時代の書状も、署名の「長秀」と花押は秀長本人が書いたものと地元紙で報じられています。

秀長の書状は各地の寺社や旧家に伝わっています。
2026年に名古屋から巡回が始まったNHK大河ドラマ特別展「豊臣兄弟!」の名古屋展の出品リストを見ても、小早川隆景に宛てたもの(国・文化庁所蔵)や奈良の長谷寺、大阪の天野山金剛寺(あまのさんこんごうじ)に宛てたものなど、秀長の文書は「書状」として並んでいます。

名前の変化:「長秀」から「秀長」へ

秀長の署名を見るときに大事なのが、名前の変化です。

秀長は初めから「秀長」と名乗っていたわけではなく、長いあいだ「長秀」と名乗っていました。

養父市によると、市内には天正8年(1580)6月25日に秀長がなんば村の弥兵衛に与えた鮎漁の免許状が残っています。
但馬攻めのときに川舟を戦いに協力させたことへの恩賞と考えられ、署名は「羽柴小一郎長秀」です。
同市は、長秀と署名した書状は全国で約20点しか残っていないと紹介しています。

その後、秀長は美濃守を名乗り、天正12年(1584)の半ばに「長秀」から「秀長」へ名前を改めたと考えられています。
同年6月ごろまでは「羽柴美濃守長秀」、9月には「羽柴美濃守秀長」と署名した文書が確認されているとされます。
改名の理由を書いた同時代の史料は確認されておらず、信長の「長」を上にした名前から兄秀吉の「秀」を上にした名前へ改めた、とする説などがあります。

時期署名に見える名乗りの例
天正8年(1580)羽柴小一郎長秀(養父市の免許状)
天正12年(1584)6月ごろ羽柴美濃守長秀
天正12年(1584)9月ごろ以降羽柴美濃守秀長

署名が「長秀」か「秀長」かは、年が書かれていない書状の年代を絞り込む手がかりにもなります。

戦国時代の書状は月日だけを書いて年を省くことが多いため、署名の名乗りや花押の形が年代を考える材料として使われることがあります。

秀長は印鑑(ハンコ)を使ったのか

秀吉の朱印状は、秀長の人生にも深く関わっています。

大阪城天守閣が2026年に初公開した9月4日付の秀吉朱印状は天正13年(1585)のものとされ、秀吉が蒲生氏郷に宛てたものです。
弟の秀長に大和国を与え、兄弟そろって大和に入ったことを伝える内容とされています。
大和郡山城の主となった秀長の立場は、兄の朱印を押した文書で配下の武将に伝えられていたことがうかがえます。

一方で秀長自身の文書は、博物館の目録や展覧会の出品リストを見ても「書状」や「判物」として紹介されるものが中心で、秀長の名で出された朱印状は目立ちません。

ふだんの文書は、署名と花押だったと考えられます。
秀長がなぜ印をあまり使わなかったのか、その理由をはっきり書いた史料は見当たりません。

ただし晩年には、花押に代わって黒印を押した文書が現れると指摘されています。

晩年の秀長と「黒印」

花押が中心だった秀長の文書に変化が出るのは、亡くなる直前のことです。

秀長は天正18年(1590)ごろから病が重くなったとされています。
奈良国立博物館には「羽柴秀長都状(とじょう)」という文書が所蔵されており、同年10月に秀長の病の回復を願って作られた祈願の文書とされ、「秀長五十一」と名前と年齢が記されていると紹介されています。

同年11月ごろからは、それまで秀長の花押を据えていた種類の文書に黒印が押されるようになった、という指摘があります。
同じころ、秀長が亡くなったといううわさも流れていたと伝えられています。

花押は本人が筆をとって書くものですが、印は本人が筆をとれなくても押すことができます。
病で花押を書くのが難しくなったことが関係している可能性もありますが、切り替えの理由を直接書いた史料は確認されておらず、はっきりしたことは分かっていません。黒印に刻まれた文字や印の形についても、広く知られた解説は多くありません。

秀長は翌天正19年(1591)1月22日に亡くなりました。

手で書く花押から押す印への変化は、秀長の最後の数か月を伝えるしるしとも言えそうです。

秀長の花押や書状を見るには

秀長の文書は原本のほかに、後の時代に書き写した「写し」も多く残っています。
写しでは花押の部分を「(花押)」と書いて済ませたり、形をなぞって写したりすることがあります。
たとえば彦根城博物館の「羽柴秀長書状写」は、彦根藩士の家が江戸時代後期に藩へ提出した写しとされています。宮崎県都城市の都城島津家に伝わる「豊臣秀長書状写」には、花押の写しがあると目録に記されています。

実物の書状は博物館の展示や所蔵品データベースで公開されることがあります。
2026年は大河ドラマに合わせた特別展「豊臣兄弟!」が名古屋(4月18日〜6月14日)、大阪(7月8日〜8月31日)、東京(江戸東京博物館、9月15日〜11月8日)を巡回しています。
養父市でも2026年の夏に「長秀」時代の書状2通が特別公開されました。

花押は人によって形がまったく違い、同じ人でも時期によって形が変わることがあります。
秀長の花押を見比べるときは、署名が「長秀」か「秀長」か、いつ誰に宛てた文書かもあわせて見ると、違いがつかみやすくなります。

しるしとして見た秀長の花押と黒印

秀長の文書を「しるし」として見ると、花押と印の性格の違いが浮かび上がります。
花押は本人が筆を動かして書くもので、その人の手がなければ生まれないしるしです。
一方で印は、印そのものがあれば本人以外の手でも押すことができます。

署名と花押が中心だった秀長の文書が、最後の時期に黒印へ変わったと指摘されていることは、手書きのしるしと押すしるしのどちらにも役割があったことを示しているようです。

まとめ

  • 豊臣秀長が文書に残したしるしの中心は、署名と花押(手書きのサイン)だったと考えられる
  • 秀長の文書は書状や判物として伝わるものが多く、秀吉のような朱印状は目立たない
  • 署名は「羽柴小一郎長秀」「羽柴美濃守長秀」「羽柴美濃守秀長」と変わり、天正12年(1584)の半ばに「秀長」へ改名したと考えられている
  • 亡くなる直前の天正18年(1590)11月ごろから、花押の代わりに黒印を押した文書が現れると指摘されている
  • 黒印への切り替えの理由を直接書いた史料は確認されておらず、はっきりしたことは分かっていない

※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。豊臣秀長の文書の年代・署名・花押や黒印の扱いには諸説があり、研究の進展によって見方が変わることがあります。文書の所蔵や公開の状況は、各所蔵機関の最新の情報をご確認ください。本記事の内容によって生じた損害について、当サイトは責任を負いかねます。

参考・出典

執筆者情報

樋口智大(行政書士)

アロー行政書士事務所の行政書士。
ドローン飛行許可申請や酒類販売業免許申請、古物商許可申請等の許認可取得のサポートをしています。
行政書士になってから紙・電子含めて印鑑と向き合う機会が増えました。また、酒類販売業免許をやっていると海外取引に触れる機会も多いことから、印鑑文化が海外では通用しないこと(サインが基本等)など、印に対するさまざまな経験をしたことにより、逆に興味を持つようになり、このような印鑑に関するブログを運営しております。歴史が好きなこともあり、歴史や家紋についても解説しております。