日本の閣議における閣僚署名は花押で行うことが慣習となっているという話は聞いたことがあるのではないでしょうか?
この習慣は明治18年(1885年)に内閣制度が成立して以来、今日まで続いています。
そして驚くべきことに、花押について定めた法令はありません。
国立国会図書館のレファレンス事例でも、関連法令を調べたが花押に関する規定は確認できなかった、とされています。閣議の運営は、そのほとんどが長年の慣行に委ねられているのです。
法律で決まっているわけでもないのに、140年間、毎週続いている「花押」。今回はその不思議な「しるし」の話です。
花押とは何か?サインが模様になったもの
花押は、簡単にいえば署名が図案化したものです。
もともとは文書に自分の名前を普通に書いていたところ、署名者本人と他人とを明確に区別する必要から、その自署がだんだんと図案化・文様化していきます。やがて、本人にしか書けない特殊な形が生まれました。
これが花押です。
別名を書き判(かきはん)といいます。ハンコを「判」と呼ぶのに対して、「書く判」というわけです。
首相官邸のサイトには、その名の由来がこう説明されています。形が花文様に似ていることから「花押」と呼ばれる、と。
主に東アジアの漢字文化圏に見られるもので、発祥は中国とされます。日本では平安時代中期から使われるようになりました。
つまり花押は、サインとハンコの中間にある発明です。
手で書くという点ではサインですが、形が固定されていて模様として機能するという点ではハンコに近い。この中間性が、花押という道具の面白さです。
花押には5つの型がある
江戸時代中期の故実家・伊勢貞丈が『押字考』という本のなかで花押を5種類に分類しました。後世の研究者もおおむねこの分類を踏襲しています。

草名体(そうみょうたい)は、自分の名前を草書でくずしていったもの。花押の出発点にあたる、もっとも素朴な形です。
二合体(にごうたい)は、名前の二文字を組み合わせて一つの形にしたもの。
一字体(いちじたい)は、名前の一字だけを図案化したもの。国立公文書館の解説によれば、現代の大臣の花押も、名前の一字あるいは姓の一字を用いたものが多いそうです。
別用体(べつようたい)は、名前とはまったく関係のない文字を使ったもの。ここに、花押がただの署名を超えていく余地が生まれます。
そして明朝体(みんちょうたい)。上下に横線を引き、その間に文字を収める型です。今日もっとも広く使われているのが、これです。
織田信長は「麟」と書いた
戦国時代、花押は本人証明の記号を超えて、武将の思想を表すデザインになっていきます。
織田信長の花押のひとつは、「麟」の字を変形させたものだとされます。
麒麟は、聖天子が世に現れるときに姿を見せるという伝説の霊獣です。桐紋のところで出てきた鳳凰と同じ発想ですね。天下を治める者が現れたときに現れる獣の名を、信長は自分のしるしに選んだ——そう解釈されているようです。
豊臣秀吉は「悉」の字を図案化したものを好んで用いたとされ、その形は地位が上がるにつれてダイナミックに変化していったといわれます。
徳川家康が用いたのが、明朝体でした。短い横線を上に、長い横線を下に置き、台形に収まるような型。この形が、中国の明王朝を創設した朱元璋(洪武帝)のサインに似ていることから「明朝体」と呼ばれます。
そして、ここが重要です。
家康の後を継いだ江戸幕府の将軍たちがこの型を踏襲し、当時の武士や町人もこぞって真似たといわれます。
広く使われている花押は明の時代に流行した形が江戸時代初期に伝えられたもので、まず天と地の両線を横に引き、その中間に自分で考えた文字を簡単な形にして作る、と説明されることが多くなっています。
つまり、現代の大臣たちが閣議書に書いている花押も、家康が広めた型の延長線上にあると考えられるわけです。
日本花押協会の代表理事が現職閣僚の花押を鑑定して「いまの内閣も、徳川家康の呪縛からは逃れられていませんね」と評したという話がありますが、まさにそのとおりの構図です。
明朝体の花押はこう組み立てる

明朝体の花押の作り方はシンプルです。
- 天の線を引く(上の横線)
- 地の線を引く(下の横線)
- その中間に、自分で考えた文字を簡単な形にくずして収める
たったこれだけです。文字は名前の一字でもいいし、好きな漢字でもいい。それを崩し、線でつなぎ、上下の線の間に収める。
面白いのは、この型が誰でも作れるという点です。花押を作るのに資格も許可も要りません。ハンコと違って買う必要もない。紙と筆さえあればいい。
にもかかわらず、いまや花押を持つ人はほとんどいません。
花押をハンコにした人たち
もうひとつ、しるしの歴史として面白い話があります。
中国では五代の頃から、花押をそのまま印章にした「花押印」が使われ始めました。宋代には、花押印そのものを「押字」あるいは「押」と呼んだといいます。
元朝では、支配民族であるモンゴル人の官吏の間でこれがもてはやされました。これを特に「元押」といいます。理由は率直で、モンゴル人官吏は漢字に馴染めなかったからのようです。
書けないなら、押せばいい。
この発想、どこかで聞いた覚えがありませんか。日本の明治6年の太政官布告が「自分で書けない場合は代筆でもよいが、実印は押すこと」としたのと、同じ論理です。時代も国も違うのに、同じ問題には同じ答えが出る。
サインが図案になり、図案がハンコになる。
しるしは、こうして形を変えながら循環していきます。
なぜ花押は日常から消えたのか
江戸時代に入ると、庶民の間では契約書や証文に印判を押す習慣が急速に広まりました。手で書く花押は、武家や公家、名主層など限られた層のものになっていきます。
そして明治維新以降、欧米の法制度が導入され、印鑑登録制度が確立されます。これによって、日常の法的手続きにおける花押の実用的な役割は、事実上終わりました。
理由は考えてみれば明らかです。花押は照合しにくい。
ハンコは印影を機械的に突き合わせられます。印鑑証明書という制度も作れる。しかし花押は手で書くものですから、書くたびに微妙に違う。近代の事務が求める大量処理には、まったく向いていません。
花押は、書き手の技量と個性に依存するしるしでした。だからこそ美しく、だからこそ制度には乗らなかった。
それでも残っている場所
実用の役割を終えた花押が、今も現役で使われている場所があります。
閣議書がその筆頭です。前述のとおり、明治18年の内閣制度創始以来の慣習として続いています。
閣議には、閣僚のほかに内閣法制局長官と官房副長官が、脇に置かれたテーブルに陪席します。そしてここに、ひとつ興味深い区別があるといわれます。官僚が任命される事務の官房副長官と内閣法制局長官は、花押ではなく印鑑を使うのが慣例だというのです。
政治家は花押、官僚はハンコ。
同じ書類の上で、二つの異なる「しるし」の文化が並んで生き続けている。日本の役所らしい光景だと思います。
もうひとつ、茶道や華道の家元が免状を発行する際にも、正式な署名として花押が用いられる慣例があるとされます。
閣議書と免状。どちらも「格式」を必要とする場面です。実用から退いた花押は、権威と格式を示すための儀礼として生き残ったのだと考えられます。
自分の花押を作ってみる
最後に。花押は、誰でも作れます。
登録も届出も要りません。実用的な効力もありませんが、逆に言えば何の制約もない。
蔵書印の代わりに本の見返しに書く。手紙の末尾に添える。年賀状に押す。そういう使い方であれば、明日からでも始められます。
作り方は、先ほどの3ステップです。天の線を引き、地の線を引き、その間に自分の一字を収める。何度も書いて、手が覚える形に整えていく。それが自分のしるしになります。
印は買うもの、紋は受け継ぐもの、そして花押は、自分で作るもの。
三つの「しるし」のなかで、花押だけが、今からでも一から始められるものなのです。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものです。歴史については諸説があり、研究者や資料によって説明が異なる場合があります。閣議における慣行の詳細は、報道等で伝えられている内容に基づいています。
